(平安時代の内裏。中央やや下に紫宸殿、その左上に清涼殿、そのすぐ奥に弘■殿、桐壺(淑景舎)は右奥、藤壺(飛香舎)は清涼殿の左奥。和田万吉 等編『日本歴史参照図表』、吉川半七[ほか]。)日本歴史参照図表 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)源氏物語とその世界(上) ファイナンス 2024 Nov. 47(1)桐壺五つの舎(梅壺、藤壺、雷鳴壺、桐壺、梨壺)と七つの殿(弘徽殿、承香殿、麗景殿、宣燿殿、常寧殿、登花殿、貞観殿)からなる。後宮の中ではもともと「清涼殿に隣接する弘毅殿、次いで承香殿の序列が高かった」が、藤壺が紫式部の仕えた「中宮彰子(藤原道長女)に使用されたことがきっかけで、藤壺は弘毅殿とともに最上位の皇后(中宮)の住まいとして用いられるようになっ」たという。摂関政治の二百年間を描いた「天皇の歴史3 摂関政治」等によると、天安(858)八月、九歳の清和天皇が即位。やがて平安朝最初の太政大臣、平安時代の歴史物語「大鏡」に「藤氏の始めて太政大臣・摂政したまふ。めでたき御有り様なり」と伝わる藤原良房が「天下の政を摂行」する摂政となる。大鏡が「かくいみじき幸ひ人の、子のおはしまさぬこと、口惜しけれ」という良房が貞観十四年(872)九月に亡くなると、その政治的地位は右大臣となった養子の基経に受け継がれる。貞観十八年十一月、清和天皇が九歳の皇太子に譲位し、陽成天皇が即位すると右大臣基経が摂政となる。その陽成天皇は、元慶八年(884)二月、退位し、陽成天皇の祖父文徳天皇の異母弟、当時五五才の光孝天皇が即位し、基経の処遇を定める宣明で「内覧」を命じたという。仁和三年(887)八月、光孝天皇が死去。二十一歳の皇太子が宇多天皇となると基経の処遇について同年十一月、『其れ万機巨細、百官己を惣ぶるは、皆太政大臣に関り白し〈関白於太政大臣〉、然る後に奏すること』との詔、これが「関白」の語の初見という。基経没後、宇多天皇は基経の嫡男時平と、学者出身の菅原道真を互いに競わせるように昇進させたというが、「大鏡」では帝の道真「右大臣の御覚え、殊の外におはしましたるに」、時平「左大臣安からずおぼしたるほどに…右大臣の御ために善からぬ事出て来て、…太宰権帥になり奉りて、流されたまふ」というように菅原道真が失脚。やがて道真と競っていた藤原時平が亡くなると、その弟太政大臣忠平、その長男太政大臣実頼、次男右大臣師輔、更に師輔の長男太政大臣伊尹、次男太政大臣兼通、妻の「蜻蛉日記」に「豪放磊落にして演技派」な人間として描かれる三男太政大臣兼家らが承継。兼家の長男で疫病大流行の年に「お酒の度が過ぎたため」に亡くなった内大臣道隆、関白になり病で七日で亡くなった三男右大臣道兼、仕えた三代の帝のいずれにも娘を中宮とした五男太政大臣道長の兄弟へと藤原北家の中で権力が承継されていく。その間、様々な権力闘争が、はじめは藤原氏と他氏の間で、やがて藤原氏の権力が確立すると、藤原家内で、兄弟の中でも繰り広げられたのが史実。そんな中で栄華を極めた藤原道長の時代に書かれたのが『源氏物語』。読んだことがない人も多いかもしれないので、まずは物語の筋とともに当時の背景などをたどる。周到に巡らされた伏線、大胆な省略、時には期待を裏切る場面転換など、千年前に現れたこの才能とその後何百年とこれに匹敵する才能が現れなかったのだろうかと驚く。高い身分ではなかったが、帝の寵愛を一身に受けていた「桐壺の更衣」は美しい皇子を産むが、他の女御・更衣達に妬まれ病気となり、亡くなる。美しく、学問に優れ、音楽などの芸能の才にも恵ま3 物語とその世界帝の子で、飛び切り美しく、学問や芸事にも優れている主人公が、順調に出世し、最後は太政大臣を越えて、息子である帝からの譲位を断り、准太上天皇にまでなり…という54帖からなるサクセスストーリーには、武士も殆ど出てこず、戦も生身の権力闘争も描かれない。世の中の動きは、帝の代替わりとお妃選び位で、当時、猛威を振るった疫病も描かれない。
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