(『源氏物語絵詞』[1]、和田正尚 模写)源氏物語絵詞[1] - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)元国際交流基金 吾郷 俊樹 46 ファイナンス 2024 Nov.1 はじめに「いづれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ふなかに、いと、やむごとき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」で始まるこの物語。これをモチーフにした絵画、工芸は多く、能や歌舞伎でも題材になり、源氏物語を踏まえた和歌も多いというが、芥川龍之介は「僕は『源氏物語』を褒める沢山の人々に遭遇した。が、実際に読んでいるのは…僕と交わっている小説家の中でたったの二人」という。一説によると800人の登場人物が出てくるともいう四世代にわたるこの壮大な物語、登場人物の多くが官職で呼ばれ、昇進すると呼び名も変わり、名前がある人物も「夕霧」とか「柏木」だと男か女かも解らないし、「空蝉」となると人間なのかどうかさえ解らない。父帝の寵妃と密通して皇子が生まれた皇子がのちに帝になり、兄である次の帝の妃の一人とも関係を続ける主人公光源氏。晩年にはその兄から乞われてその三女を妻にするが、その妻に懸想した甥との不義の子が生まれ、自分の子として育てるという因果応報などなど。「儒教道徳から見て言語道断の書」と指摘されたり、生まれによる差別、地方への差別意識など、今風に言っても「不適切にも程がある」と思われるところは数多いが、男女の機微、権力者へなびく人の心、身分の上下を問わない、親子の愛情、嫉妬、競争心などを細やかに描き、日本文学者ドナルド・キーンは、「全世界の文学という一大眺望の中でみるとき、紫式部ほど大きな存在として浮かび上がる日本の作家は、他にはない。」という。今年はやはりこの千年にわたって読み継がれる源氏物語とその物語の世界、そしてこの物語の様々な分野への影響をご紹介。2 当時の社会紫式部の生きた西暦1,000年頃。794年の桓武天皇の平安京への遷都から約200年後。大化の改新で功のあった中臣鎌足の末裔である「藤原北家が摂政や関白の地位について、朝廷の政治を主導する」摂関政治の時代。物語の主な舞台、平安京。「高度成長期の1965~67年にベストセラーとなった」という「日本の歴史」の中の一冊で、「摂関期を扱った本では最高峰」と言われる「日本の歴史4 平安京」によると「南北三十八町(約五.三一キロ)、東西三十二町(約四.五七キロ)…大内裏は新京の北部中央に位置を占め、南北十町(約一.四キロ)、東西八兆(約一.二キロ)…、その四方に十二の門…南面の中央に建つのが朱雀門で…その地点から真南に幅二十八丈(約八十五メートル)の大路…朱雀大路」があり、「朱雀門内に…ざまざまの政庁・殿舎がぎっしり配置」された「大内裏の中央部やや東寄りに内裏…。内裏の中心は紫宸殿で、他に仁寿殿、承香殿、あるいは清涼殿などがその南半部に位置」していたという。平安時代の殿舎の意味や背景を当時の物語と関連づけた「源氏物語の舞台装置」によると「内裏は東西73丈(約219㍍)、南北百丈(約300㍍)」、内裏に暮らすキサキや宮廷女官が暮らす「後宮」は帝の住まいたる清涼殿の後ろ側に位置する源氏物語とその世界(上)
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