*45) 養老孟司、2023,p83−86*46) 「愚直に考え抜く」岡田光信、ダイヤモンド社、2019、p197*47) 「日本思想史と現在」渡辺浩、筑摩書房、2024、p84*48) 本稿第7回「『ほら』が豊富な日本語の世界」参照*49) 金間大介、2022、105ー6。 44 ファイナンス 2024 Nov.しようのない事態に耐える能力のことを指す。「世間」で様々な主体が変幻自在に現れてくる日本語の世界でリーダーシップを取っていくためには、不可欠の能力と言えよう。そして実はそれはリーダーにだけ求められる能力ではない。日本語の世界で、日常生活をしていく上において全ての人に求められる能力である。日本語は「世間」の中で相手と感情を共有しようという言語だと述べてきたが、人が社会生活をしていく上で一生を一つの「世間」だけで過ごせるわけがない。学校に入れば新しい「世間」が待っているし、就職しても新しい「世間」が待っている。そこで、先ず発揮されなければならないのがこのネガティブ・ケイパビリティの能力だ。新しい「世間」は、最初はだれにとっても不確実さや不思議さに満ちた世界だからだ。そこで、ネガティブ・ケイパビリティを発揮しながら相手と感情を共有できる新たな「世間」を創っていくのだ。最近の職場では、セクハラ、パワハラを心配するあまり、新人への指導がまともにできないという問題が生じている。かつてのように指導すると、たちまちパワハラだ、あるいはセクハラだと言われてしまうからだ。しかしながら、それでは新人の社会人としての成長が見込めない。一人一人が仕事を通じて成長していくことが、各人の実り豊かで幸せな人生の実現のために大切なことのはずだ。そのためには上司の指導が大切なことのはずなのに、それが出来なくなってしまう。筆者は国家公務員共済組合連合会(KKR)に入会してくる新人に対して、毎年の訓示で「打たれ強くなれ」ということと、「同期仲良く」ということを訓示している。それは、主として、KKRの病院や宿泊施設でモンスター・ペイシェントやモンスター・カスタマーからのクレームを想定してのものだが、上司からの指導の場面も想定してのことである。それは、ネガティブ・ケイパビリティ―が大切だという話だ。「同期仲良く」というのは、感情を共有できる新たな「世間」を創っておけば上司から厳しい指導を受けたような場合にも寄り添ってくれる同期がいれば、それをしっかりと受け止められるはずだということである。ネガティブ・ケイパビリティーを養っていた教育の喪失思うに、かつての「読書百遍意自ずから通ず」という教育は、事実や理由をせっかちに求めず、懐疑の中にいられるネガティブ・ケイパビリティを養う教育の側面を持っていた。江戸時代に薩摩で行われていた郷中(ごじゅう)教育のように、一つの答えのない問題について仲間同士であれこれ考えさせる教育も同様のものだった。前回紹介した、説明なしに型から入る武道や茶道といった習い事も、ネガティブ・ケイパビリティ―を養う教育だったと言えよう。そのような教育で自分なりの型を極めれば、それは型でなく強い個性となる*45。それに日本語が得意な夢想力が加わると、大きな革新の力にもなるはずだ*46。型から始めて自ら努力することが大切だと教えてきたのがかつての日本の教育だった。自ら努力することについては、江戸時代の家業道徳は立身出世に励めと教えていた。「みなみな身を立て出世し、諸人に褒められ可愛がられんとの心ざしは、生まれながらに自然の望みなり」とは、江戸時代の町人教訓書の言葉だ。立身出世の望みは、自然であり、正当であり、そのための努力は道徳的責務でさえあるとしていたのだ*47。明治になっての福沢諭吉の「学問ノススメ」や二宮尊徳の「報徳思想」も、その延長線上にあったと言えよう。文明開化のために導入された教育では、西欧諸国に追いつくために一つの正しい答えを前提とした暗記中心の効率的な詰込み教育が行われることになった。それは事実や理由をせっかちに求めることなく、「ほら」を尊び*48あいまいに考えることを当然としてきた日本語の力を失わせる教育だった。暗記中心の効率的な詰め込み教育に対してはさすがに反省が行われて、そこから「ゆとり教育」が導入された。しかしながら、それが西欧流の自立した「自我」を前提としたものだったために、一部のエリート校を除いては学校側の「主体的な学び」を測定しようとする試みに対して、生徒の側でのひたすら目立たないようにしようという行動パターンがとられて多くは失敗に終わった*49。西
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