ファイナンス 2024年11月号 No.708
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害*41に近い症状を呈したり、コミュニケーション障害を起こしたり、あるいはひたすら人に迷惑をかけないようにする「迷惑ノイローゼ」を発症したりするという*42。イタリア人の精神科医のバントー・フランチェスコ氏が「イタリア人の僕が日本で精神科医になったわけ」という本の中で指摘していることだ。日本語と日本人(第8回)*36) 「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」金間大介、東洋経済新報、2022、p108−9、194−5*37) 日本経済新聞「経済教室」野口雅弘、2022.8.1。「スルースキル」は、相手との心理的距離をコントロールする手法の一つ。相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語の言語空間では、その構造の中でトラブルが起きた場合、強力な攻撃手段として特定の人間を無視する「いじめ(村八分)」が存在する。そのような事態に陥ることを避ける一手法である。*38) 「ネオサピエンス:回避型人類の登場」岡田尊司、2019、文芸春秋*39) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023,p109−113。遺伝子そのものは変化しなくても、遺伝子の発現が変化する仕組みは遺伝するという(エピジェネティクス)。*40) 西欧でも最近では厳しい競争社会が自己認識の揺らぎ(不安)をもたらしていることが問題になっている。米国では、そこからくるストレス回避のた*41) かつて、多重人格障害と呼ばれていた精神障害。複数の人格が交代して現れるもの。通常なら容易に思い出せるはずの情報を思い出せないなどの症状めの薬物乱用(オピオイド)が起こっている。を呈する。*42) 「イタリア人の僕が日本で精神科医になったわけ」バントー・フランチェスコ、イースト・プレス、2023、p64、94、116、144−153*43) バントー・フランチェスコ、2023、p171*44) 「手間ひまをかける経営」高田朝子、生産性出版、2023 ファイナンス 2024 Nov. 43が起こるのだという*36。そのような状況に対して対話を避ける方向での対応が起こっているのが今日の日本のネット空間と言えよう。「知らんけど」という言葉を添えることによって、自分の発言に保険をかける技法が生まれてきているのだ。そもそも日本語の言語空間には、他人の押し付けといった不快なことに対しては、「スルー・スキル」(鈍感力)でやり過ごすという文化があった*37。その文化の下、生まれてきた技法だ。岡田尊司氏によると、そのような技法が生まれているネット空間では、傷つくことを避けたいという「回避型人類(ネオサピエンス)」が登場してきているという*38。それは、我が子など愛おしい存在を見て視線を交わすことでオキシトシンというホルモン物質が分泌される対面の機会が減り、興奮を高める神経伝達物質のドーパミンが放出されるSNS上のコミュニケーションばかりが増えることで、いわば麻痺させられたような脳内環境が常態となるような変化が起きたことによるものだという。「言語の力」*39という本を著しているビオリカ・マリアン氏によると、情報通信(IT)革命による対面コミュニケーションの機会減少の中で、他者への愛着を最低限にして、自分が傷つかないようにする変化が遺伝子レベルでも生じてきているという*40。嫌われる勇気などない日本人インターネット空間に「回避型人類」が登場してくる状況下で発生してきているのが「キャラ文化」だ。それは、他者の確認、承認を求めるために自己の一面だけを切り取ったキャラクターとして振舞うという文化である。そこでは仲間だけで作り上げた「世間」で仲良くするために一度定着したキャラに添った演技をしなければならなくなる。だが、そのような演技がいかにも無理ということになると、人は解離性同一性障ネガティブ・ケイパビリティ―と日本語嫌われる勇気などないとしても、日本には先に述べた「スルー・スキル」という文化がある。そこから注目すべきなのが「ネガティブ・ケイパビリティ―」という能力だ。日本人のリーダーシップには、ネガティブ・ケイパビリティが大切だと言われる*44。ネガティブ・ケイパビリティとは、事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力、あるいは、どうにも答えの出ない、どうにも対処フランチェスコ氏によれば、その克服のためには、(1)他者に嫌われてもいい、(2)自分の意見を言ってみる、(3)自分のユニークさに自信を持って、自分を苦しませない行動をとってみるといったことが有効だという。そして、「迷惑ノイローゼ」は相手に迷惑を掛けたらどうしようという心配でメンタルが消耗することなので、それを防ぐためには、日ごろから気軽に自分の悩みを相談したり、頼み頼まれる関係性を周りに持つようにすることだという*43。この結論は、熊谷普一郎氏の「多くの他者に依存するのが日本人の自立だ」というのと同様の処方箋になっているが、他者に嫌われてもいいといった点については、そう割り切れないのが日本人だ。西欧流の「自我」のない日本人には、それはかなり無理な注文だ。日本人は、「世間」の中で、他者から嫌われないように敬語などを使って相互の関係をコントロールしてきた。そのような日本人には嫌われる勇気などないのだ。

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