日本語と日本人(第8回)*6) 武士道を書いた新渡戸稲造がモデルとされる。新渡戸の夫人は、米国人だった。*7) 東洋でも葬式で泣くのは当たり前だった。日本でも、男同士ではよく泣いた。例えば、高橋是清が、困難な日露戦争の外債募集を引き受けた時には、桂首相以下の面々が良かったといって相抱いて泣いたエピソードが伝えられている(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p31)。中国や韓国の葬式には「泣き女」が登場する*8) 「日本人の微笑(Le sourire Japonais Lafcadio Hearn)」/[著],大塚 幸男/編大学書林、1940.*9) 「『持たざる国』からの脱却」松元崇、中公文庫、2016、p236-41 ファイナンス 2024 Nov. 39生」*6の観察・感懐を綴った短編である。「先生」は、母親の「態度なり、挙措なりが、少しも自分の息子の死を、語っているらしくないということ」に気づく。「眼には、涙もたまっていない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さえ浮んでいる」。しかし偶然、先生が落とした団扇を拾おうとしたときに、母親の膝の上の手が目に入る。母親の手はふるえ、それを抑えるように、手巾を両手で裂かんばかりに緊く握っていたのである。「婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである」。東京大学名誉教授だった竹内整一氏によるとここに描かれている母親の微笑は、西洋人の目には理解しがたい、不可解・不可思議なものだった*7。それどころか、無情で冷酷で、笑いと憂鬱とが「狂的」に混じったものだとか、苦痛を堪え、死を恐れないのは神経が敏感でないからだなどと論じられていたという。それを、全くの誤解だとしたのがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「日本人の微笑」*8だった。同書の中で、ハーンは日本人の微笑について以下のように論じた。雇い主のイギリス人から、不可解な微笑ゆえに激昂され、殴られながらも、なお微笑を絶やさず、しかし最後、威嚇の一太刀を見せて立ち去ったあと、切腹した老サムライがいた。日本人の笑顔は念入りに仕上げられ、長年育まれてきた「作法」「礼儀」なのだ。日本人は、相手にとって一番気持ちのいい顔は微笑している顔だと思っているので、たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのだ。日本人の微笑の意味は、おたがいが「幸せに生きていくための秘訣」なのだ。それによって、人々と気持ちを通じ合う喜びを味わうことができるのだ。そうした親しみと共感を持つために、日本人は「礼節」や「寛容」をふくむ自己抑制を行うのだ。このように述べてハーンは、日本人にとっての「人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」とした。「世間」が持っていた日本語の寄り添い機能の喪失芥川の「手巾」に描かれている母親の姿が、今日の日本人に理解しがたくなっているのは、この母親のようにふるまうことが評価されない世の中になってきたからだ。かつては、この母親のようにふるまうことを「世間」が評価し、「世間」はそのような母親に寄り添う機能を持っていた。ところが、そのような「世間」の寄り添い機能が西欧流の「自我」を大切にする文明の流入によって大きく失われていってしまったのだ。と言われても分かりにくいが、ここで本稿第1回に説明した、日本語は相手と感情を共有しようという構造をもつ言語だということを思い出していただきたい。日本の映画のクライマクスでは、愛する二人が沈む夕日を黙って眺めているというような光景で終わるのだ。ハリウッドの映画のように、二人が燃えるようなキスを交わすことで終わるというようなことはないのだ。主語のない日本語の世界では自分も他人も「世間」の中で様々な主体として立ち現れてくる。その過程で、相手との心理的な距離をうまくコントロールし、ハーンが解説していた明治の日本人の姿は、西欧化がさらに進んだ今日の多くの日本人にも理解しがたいものになっている。しかしながら、ハーンの指摘していた日本人の微笑の感覚は今日でも変わっていない。例えば、平成21年に瀬戸内寂聴氏が「和顔施」という、お金がなくとも簡単にできるお布施のひとつについて話した。「誰に会ってもやさしい微笑をみせることで、相手の心も場もなごみます」という話だ。講演の後、聴衆の表情が、わずかに、しかし、たしかに変わったと感じられたという。筆者が内閣府で事務次官を勤めていた2011年、「幸福度に関する研究会」の調査が行われた。その調査結果によると、日本人が幸福感の理想としたのは、諸外国のように「とても幸せ」ではなく「ほどほどの幸せ」だった。それは、日本人が理想の幸福を周囲の人たちの幸福を考えて「世間並」と考えているいうことである*9。
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