ファイナンス 2024年11月号 No.708
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*1) ソーシャル・ネットワーキング・サービス。個人間のコミュニケーションを提供するインターネット上のサービス*2) 「リスクオン経済の衝撃」松元崇、日本経済新聞出版社、2014、p143−151*3) 「2020年版自殺対策白書」厚生労働省*4) 「ものがわかるということ」養老孟司、祥伝社、2023,p71−72。森鴎外は西欧流の「個人主義」という名の下に色々な思想が籠められて排斥されて*5) 「大和言葉の人間学」竹内整一、2024、ペリカン社、p51以下いる状況を乱暴だとしていた(「森鴎外」中島国彦、岩波新書、2022、pp175−76)国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇 38 ファイナンス 2024 Nov.高い若者の自殺率筆者が内閣府で官房長を勤めていた2010年、共生社会担当の統括官を一時兼務していたことがある。その時ショックを受けたのは、若者の自殺率が高いことだった*2。当時、バブル崩壊後のリストラの影響で大幅に上昇した中高年層の自殺率は少しずつ低下していっていたが、若者の自殺率は一貫して上昇していた。しかも、若者の自殺は、若者の死因の中で交通事故をも抑えてトップだった。それは、他の先進諸国では見られない現象だった。自殺防止を訴えるために、早朝に自殺防止の標語を書いたティッシュペーパーを東京駅丸の内口で担当職員と一緒に配布したりした。当時は、デフレ不況が続き有効求人倍率が0.6という状況で、ブラック企業の跋扈が問題となっていた。そこで、若者の自殺率上昇の原因も経済的な困難のせいだろうと考えていた。そこで、デフレ脱却が重要だなどと発言したところ、若者の自殺までデフレのせいにするのは乱暴だとの批判をいただいた。今日、有効求人倍率は1を大きく超えて人手不足といわれるようになり、若者の自殺も減少傾向になっている。しかしながら、熊本県出身の作家、渡辺京二氏に「逝きし世の面影」という本がある。伸び伸びと暮らしていた江戸時代の日本人を描いた本だ。それは相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語という言語空間に支えられていたかつて日本人の姿であった。その言語空間が、明治以降、主語制の西欧言語の影響を受けて揺らぎを生じ、さらに最近ではSNS*1といった場を共有しない言語空間の登場でその揺らぎを大きくしている。自殺が若者の死因のトップだという他の先進諸国に見られない状況は変わっていない*3。その状況を見るにつけ、日本語の研究をしてきた今では、日本で若者の自殺が多いのは、西欧言語文明の流入によって日本語の世界の持っていた相手と感情を共有しようという機能が弱体化していることによるのではないかと思うに至っている。西欧流の自立した「自我」を大切にする文明の流入によって日本人がいかに大きな戸惑いを感じたかは、今日の日本人には分からなくなっている。そこで、それを理解するのにいいのが、当時、日本に来た欧米人が日本の文明に感じた大きな戸惑いを知ることだ。そのような欧米人の戸惑いがよくわかるのが、芥川龍之介の「手巾(ハンケチ)」という短編小説だ*5。それは、自分の息子の死を知らせに来た母親に応対した「先主語制の言語文明の流入によって揺らいでいる日本語の世界明治期、西欧語に邂逅した日本がどのように対応していったかは、本稿第3回で見たとおりである。日本は、西欧の語彙を漢字を用いて日本語化し、進んだ西欧文明を吸収して急速な近代化を実現していったのである。しかしながら、それに伴って流入した「自我」を大切にする西欧の文明は、「自我」の観念を持たなかった日本人に大きな戸惑いを感じさせることになった。養老孟司氏によると、夏目漱石は、その戸惑いの中で胃潰瘍になったのではないかという。日本独特と言われる「私小説」もその中で誕生したのではないかという*4。日本語と日本人(第8回)―主語制の西欧文明の流入と日本語―

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