ファイナンス 2024年11月号 No.708
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表1.6:医療費削減策への支持動向アメリカにみる社会科学の実践(第二回)*9) この経緯については、天野(2013)を参照。*10) バイデン政権になって、インフレ抑制法により、メディケアが製薬会社と薬価交渉を行う道が開かれている。公的保険の拡大を許すと、医療費抑制の手がかりを与えるという、医師・製薬の認識は正しかった。彼らは、保険に加入した者で定期的に運動する確率が若干低下していたことを見出した。保険に未加入の時には、自ら健康管理に取り組んでいたのが、保険に入ることでモラルハザードが起きていたのである。保険と健康アウトカムの関係についての古典的研究としては,オレゴン州でメディケイドの拡充をランダムに適応した自然実験(2008年)を用いた研究が著名である。この研究も,(2年間しか追跡していないが、)保険加入は健康アウトカムにはさして大きな違いをもたらさなかったと結論づけている。(Baicker, et al., 2013)。良い健康アウトカムを達成するには、保険だけでは力不足である。若い頃からの習慣など多様な要素が効いていることはもちろん、ライフサイクルのなかでいったん選んだことが内生的に影響を与えるダイナミックな面があり,研究としては難しいものになっている。第二の課題は医療コストの抑制である。アメリカの医療費(heath expenditure)のGDP比は16.6%で、OECD平均の9.2%より際立って高い(2022年; OECD, 2023)。ACAは皆保険に近づく改革であり、ミーレらの研究は、ACAが病院利用を増やすバイアスを持っていたことを改めて気付かせてくれる。もちろん、医療費高騰がまったく問題視されていないわけではない。ACAの法制化の過程では、メディケアの普遍化(年齢制限撤廃; Medicare for All)が民主党の一部から提示され、その提案の趣旨のひとつは医療費抑制であった。ただ、公的保険の拡充は、(メディケアではなく)メディケイドの拡充として部分的な実現にとどまった。最終的に成立したACAでは医療費抑制への取り組みは薄い。ACAはPCORI(Patient-Centered Outcome Research Institute)を設置したが、PCORIは実施できる調査が狭い範囲に限られ、費用対便益分析を行うことは明示的に研究対象から外された。ただ、このACAの拡大志向こそ、共和党の反対にも関わらず、医師・製薬という業界の大勢がACAを最終的に支持した背景にある*9。エリック・パタシュニク(Eric Patashnik、ブラウン大学)とアラン・ガーバー(Alan Gerber、イエール大学)らは、イギリスのNICE(National Institute for Health and Care Expenditure)のような医療の費用対便益分析は、アメリカには合わないという(Patashnik at al. 2017)。医療保険はあくまでも民間であり、健康は個人の問題であるという認識が基本にある。もちろんメディケアは公的制度であり、その規定には、理に適った必要な(reasonable and necessary)医療を提供するとある。ただ、その運用の実際は費用対便益に基づく医療の提供ではなく、医者が必要と判断するものということになっているという*10。医療は、コラム1.7でみた費用対便益分析の大きな例外になっている。アメリカでは医師の地位が高く、その裁量を制限する施策は抵抗を受ける。パタシュニクとガーバーらは、ある医療費削減策に関して、政党や医師会の賛否を操作し、一般のアメリカ人の支持/不支持に与える影響をみる実験をおこなっている。表1.6によると、興味深いことに、民主・共和両党が賛成であっても、医師会(AMA)が反対であるとの条件のもとでは、国民は削減策に反対の方に傾くという。医師会は政治家よりも強い。 (注) 政治も医師会も意思表示をしない場合と比べ、支持(+)、不支持(-)の割合がどの程度変化するかを標記している。(出典) Patashnik et al., 2017に基づき、筆者作成。政治意思表示なしN/A医師会意思表示なし0.24医師会による支持-0.05医師会による反対民主党超党派委員会による支持による支持0.010.230.250.27-0.09-0.18民主・共和党による支持共和党による支持0.18-0.200.320.38-0.29-0.11ファイナンス 2024 Nov. 29〓〓*9*10コラム1.10:アメリカの介護保険にみる保険の失敗アメリカの社会保障・福祉で、医療にも増して穴が空いているのが介護(ロングタームケア)である。マシュー・シャピロ(Matthew Shapiro、ミシガン大学)は、アメリカの中間層の介護を支える制度がないこ

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