ファイナンス 2024年10月号 No.707
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旧・笙の川笙の川木崎通り中央町ファイナンス 2024 Oct. 85 図4 広域図(出所)地理院地図Vectorから筆者作成市役所東洋紡敦賀病院アルプラザ(平和堂)旧・ポー・トンドン・キホーテ東洋紡初代北陸線敦賀駅敦賀■■に小浜で創業した第二十五国立銀行で、敦賀には明治12年(1879)に出店した。地元本店行ができたのはそれから13年後の明治25年(1892)11月である。大和田荘しょう七しちが創業した大和田銀行である。大和田荘七も事業家の名跡で、8代目大和田荘兵衛の時代にできた分家である。初代頭取の大和田荘七は名跡の2代目で、出生名は山本亀次郎という。本店行舎の2代目と3代目が現存している。明治34年(1901)に建てられた木造2階建の2代目本店は現在みなとつるが山車会館の別館となっている。令和3年(2021)に国の登録有形文化財に登録された。その南隣、現在は敦賀市立博物館となっている近代建築が3代目の本店だ(図3)。昭和2年(1927)の竣工の鉄骨煉瓦造3階建で、平成29年(2017)に国の重要文化財に指定された。旧本店が面する通りは現在「博物館通り」という愛称で呼ばれ、古い町家が並ぶ観光名所になっている。新興の大和田銀行が業績を伸ばす中、県外行である三井銀行、第六十四国立銀行は明治27年(1894)に撤退。代わりに地元商人が敦賀銀行を立ち上げ三井銀行の跡地に店舗を置いた。大和田銀行は金沢や大阪にも支店を出し、福井県で福井銀行と並ぶ大手行に成長していった。昭和11年(1936)3月、敦賀銀行と第二十五国立銀行の後身である敦賀二十五銀行を合併し嶺南エリアのシェアを高めた。一県一行主義の下でも福井銀行に合流しなかったが、終戦直後の昭和20年(1945)10月、三和銀行に吸収された。舞鶴、大阪の支店と本店以外はその年のうちに福井銀行に譲渡された。本店も昭和37年(1962)に福井銀行が譲り受けた。福井銀行が敦賀に進出したのは昭和3年(1928)である。富貴町に敦賀支店を設けていた嶺南銀行を傘下に収めた。嶺南銀行は大正9年(1920)に三方郡南西郷村で設立された。大正11年(1922)に開店した敦賀支店を含め嶺南東部に9店舗を擁していた。もう1つの中心地が御所辻子町である。例大祭で山車を出す町の1つで、巡行時には必ず先頭を進む。大和田銀行の通りから通りに沿って東に約400m離れたところにあり、明治以降の町名を大内といった。大内には町役場があった。大正15年(1926)の大蔵省「土地賃貸価格調査事業報告書」をみると、最高賃貸価格地点が「大内」とある。大正末期から昭和初期にかけて一等地が旭町(東町)から東に移ったことを示唆する。明治40年(1907)には富山に本店を構える第十二銀行が開店した。現在の北陸銀行である。町役場は昭和8年(1933)に浜手に移転したが、新庁舎は大和田荘七が寄付している。昭和49年(1974)、郊外移転に伴い取り壊され、跡地に市民文化センターが建った。前面に大和田荘七像がある。最高路線価は本町通りから駅前に戦後、路線価制度が始まった昭和30年(1955)の路線価図をみると、最も路線価が高かったのは気比神宮の南側の道路2区画分と、東側の道路の1区画分だった。昭和48年(1973)の地点名は「本町1丁目

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