旧・川幅小浜図3 旧大和田銀行本店(現・敦賀市立博物館)卍卍卍卍街道筋廃線跡図2 市街図(出所)筆者作成西町(幸町)卍卍きらめきみなと館(旧・シー・アドベンチャー・エネルギー館)電力3社寄附施設町役場跡・市民文化センター■■跡三井↓敦賀跡大和田→三和跡唐人橋町(富貴町)卍卍嶺南↓福井跡東町(旭町)卍卍卍卍塩津■海津金ヶ崎駅↓敦賀港駅跡跡地赤レンガ館鉄道資料館卍卍■■跡卍卍町役場跡卍卍気比神宮金ヶ崎緑地つるが・きらめき・みなと博■■敦賀駅跡 84 ファイナンス 2024 Oct.一等地は東町(旭町)明治15年の「福井県統計書」によれば、最高地価の場所は敦賀旭町とあった。「京都税務監督局統計書」の明治43年(1910)でも同じ場所だった。少なくとも地価の上では旭町が明治時代の中心地とうかがえる。旭町は明治以降の町名で以前は東ひがし町まちといった。丹後街道と北陸道に通じる道の間にある。鉄道が日本海沿岸に延びることは、競合する内航海運にとって不利となる。そこで敦賀港は海外に目を向けることにした。明治29年(1896)に特別輸出港、明治32年(1899)に開港場(外国貿易港)に指定される。明治40年(1907)には横浜・神戸・関門に並び国の第1種重要港湾となった。シベリア鉄道が全線開通し、敦賀とウラジオストク間の定期航路が開設され、明治45年(1912)には、東京の新橋から金ヶ崎駅(敦賀港駅)から連絡船に乗り、ウラジオストクからシベリア鉄道を介してヨーロッパに行く「欧亜国際連絡列車」が開業した。東町は、気比神宮の例大祭で巡行する山や車まを出す町の1つである。陸道総鎮守、越前国一宮の格式を持つ気比神宮は大宝2年(702)の修営と伝えられる。山車巡行は室町時代末期頃にはあったようだ。令和の現代、山車を出す町は6つあり、東町の他に山車を出す町は御ごしょの所辻ず子し町、金かねヶが辻ず子し町、唐とう仁じん橋ばし町、観かんじゃ世屋町、鵜う飼がいヶが辻ず子し町で、町名にちなむ山車を出す(図1)。町の位置を図2に示したが、この辺りが古くからあった街ということだ。明治に入り東町が旭町、西町が幸町、御所辻子町が大内町という具合に町名が変わった。さらに戦後の住居表示でかつての町名を辿るのが難しいほどに変わってしまった。例えば東町、西町近辺はまとめて相生町になった。銀行街は東町より浜手にあった。敦賀で最も早かった銀行の設立は明治11年(1878)4月の三井銀行の支店である。前身の三井組は銀行制度の発足前から県公金を扱うため敦賀に進出していた。同年12月、大津で創業した第六十四国立銀行が敦賀に支店を出した。福井県で最も早い国立銀行は明治10年(1877)
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