275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D図1 みなとつるが山車会館に展示されている山車ファイナンス 2024 Oct. 83 (出所)本稿の写真はすべて令和6年9月12日に筆者撮影新幹線とバイパスがもたらす、鉄道と港の街の再生新幹線とバイパスがもたらす、鉄道と港の街の再生内外交易の拠点として福井県は北陸道(北国街道)の木きノの芽め峠とうげを境に嶺北と嶺南に分かれる。木ノ芽峠の別名を木もく嶺れいというからだ。県庁所在地の福井や越前国の国府があった武生を擁する嶺北に対し、敦賀の属する嶺南は若狭湾岸の経済・文化圏で京都や滋賀と親密だ。明治9年(1876)まで敦賀県、そして滋賀県に編入された時期を経て、嶺南・嶺北を合わせた現在の福井県の形となり、敦賀が帰属するようになったのは明治14年(1881)である。古来、敦賀は日本海沿岸と畿内を結ぶ要衝だった。北陸の産物は海路で敦賀湊に揚げられ、内陸の疋ひき田たを経由して近江国に入り、琵琶湖北岸の塩津または海津から水路で大津に渡った。近世、西廻り航路が主流になると敦賀を素通りする船が増えたが、積替コストが嵩むものの京・大阪への近道だった敦賀湊も北前船の寄港地として栄えた。北前船と取引する廻船問屋が繁盛し、大和田荘しょうべえ兵衛をはじめとする名跡も登場した。明治2年(1869)、新政府は内外商業の振興のため商社機能を持つ通商会社と、貿易金融を担う為替会社を東京、横浜、大阪、神戸、京都、新潟、大津と敦賀に置いた。両社の上部機関を通商司といい、敦賀出張所の初代頭取が8代目の大和田荘兵衛だった。ちなみにその末裔が大和田伸也、大和田獏の俳優兄弟である。また、敦賀は日本海の向こう側の大陸との窓口でもあった。NHK大河ドラマの「光る君へ」で、後の紫式部こと“まひろ”が越前守に任官した父・藤原為時に帯同して越前国に引っ越した。敦賀は若狭湾に面するが若狭国ではなく越前国に属しており、越前守が管掌した。ドラマでは敦賀にあった「松原客館」のエピソードがあった。渤海使を接待する迎賓館だったが、既に渤海は滅びており宋国人が滞在していた。鉄道の敦賀明治2年(1869)に起案された鉄道計画において優先されたのは東京・横浜と京阪神を結ぶこと、日本海と太平洋を結ぶことだった。縦横の結節点と目されたのが琵琶湖の水運である。まずは官営鉄道の西端の神戸から琵琶湖南岸の大津まで、そして敦賀港から琵琶湖北岸の長浜までを鉄路で結び、大津と長浜は連絡船で結ぶ構想だった。明治15年(1882)、敦賀港に金ヶ崎駅ができ、2年後に柳ケ瀬トンネルが開通して長浜駅まで開業した。敦賀駅は金ヶ崎駅の1つ手前で、気比神宮の南西にあった。明治29年(1896)、敦賀駅から福井駅まで延伸したが、敦賀駅からスイッチバックする線形だったため、明治42年(1909)、気比神宮から約1km内陸に後退した場所(現在地)に敦賀駅を移転した。敦賀駅から金ヶ崎駅までは盲腸線となった。後の敦賀港線、敦賀港駅である。駅や路線の変遷については図4も参照のこと。路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史第56回 福井県敦賀市第56回 福井県敦賀市
元のページ ../index.html#87