ファイナンス 2024年10月号 No.707
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日本語と日本人(第7回)ファイナンス 2024 Oct. 33*55) 島薗進、2020、p247−61*56) 神主がミソギで身を清めたり祓いをしたりするのは、日本の神がケガレを嫌うからである。*57) 荘園は、藤原氏の荘園なら春日神社、武家荘園なら八幡神社、延暦寺の荘園なら日吉(日枝)神社というように、自分たちの氏神を中心に成立していた*58) 「室町は今日もハードボイルド」清水克行、2023、p220−221、225−228*59) 御嶽山、磐座(いわくら)、など。*60) 天津神が国津神の中心にあることを示すために中国にはない神■官が置かれていた(島薗進、2022、p237)。明治半ばに「神道は祭典の古俗」とした久米邦武は、神道は天を祀る素朴な習俗だとしていた(井上、2013、p256)。*61) 天皇が天と一体化していることは、天皇に姓がないことによって示されており、天皇は臣下に姓を与えることによって豪族を支配した(「ニッポンの闇」中野信子、デーブ・スペクター、新潮新書、2023、p150)。*62) 大澤真幸氏は、その帰結として中国の易姓革命の思想が受け入れられず、萬世一系の天皇が続いたとしている(大澤真幸、2016、p69、p70)。*63) 江上波夫、梅原猛、上山春平、1982、p419。 のは鎌倉仏教の時代からで、中国と同様に諱(戒名)を贈る風習が定着していったのだった*55。かつてのお墓がない中での慰霊は、戦没者や震災被災者の慰霊を考えればイメージがわく。ちなみに、そこでは慰霊される個人の生前の行いを問うようなことは行われない。それは、神主によるお祓いで全ての罪穢れが祓い清められるという神道*56の感覚によるものといえよう。中世の荘園*57での刑罰の本質は、ケガレをなくす「お清め」や「お祓い」だったという。そのために、ケガレた家屋の破却だけでなく、法螺貝を吹いたり護摩で出た神灰をまいたりといったことが行われたという*58。罪もケガレととらえて、「お清め」などで無くなるとされていたのだ。浄土真宗の悪人正機の教えも、その流れの中で自然に理解することが出来よう。罪が「お清め」などで無くなるという考えは、日本人の「罪を憎んで人を憎まず」という考え方につながっている。それは、日本人が死者を鞭うつ文化を持たないということでもある。本居宣長は、物語の本質には「儒仏にいう善悪にあずからぬものがある」としていた。ただ、そのような文化は日本独特のもので、諸外国では罪を犯した人を憎むのが一般的である。蒋介石が先の日本の敗戦後、「報怨以徳」を唱えたことがよく知られているが、それは老子の言葉で、論語には「以直報怨、以徳報徳(憲問第十四)」とある。儒教では、罪を憎むのが道徳的なのだ。それは、今日の中国の日本人への怨みを晴らすためには何をしても罪に問われることがないという「愛国無罪」の考え方につながっている思想で、儒教を大切にしていた韓国における「恨」の思想にもつながっているものだと言えよう。霊魂は不滅だと考える日本人の感覚で西欧人に理解しがたいものとして、自死を悪とみなさないことがある。日本人は、人工妊娠中絶や母子心中を悲しむべきことだとはしても、それを悪とはみなさない。自死を物語にした人形浄瑠璃の心中もの(「心中天の網島」)や武士の殉死(切腹)、戦争末期の特攻隊への尊崇などは日本人にはよくわかるが、自死を人間を創造した神との契約に反する悪だと考える欧米人には理解しがたいものなのである。日本の統治システム八百万の神が混沌の中から生まれてきたとする日本では、天皇だけでなく山や岩や猪などの動物も神だった*59。古い日本語では、イワはただの石ではなく神様の依る石だった。日本には、それぞれの土地に根ざした神(国津神)がいて地域の豪族がそれをそれぞれに祀っていた。そのような中で、天皇が自らの神(天津神)を祀る行為は、世界を照らす天照大神の子孫として、それぞれの土地の国津神を祀る人々の生活の安寧を祈る行為だった*60。魏志倭人伝に、卑弥呼が「鬼道に仕え」とあるのがその原型と言えよう。そのような天皇の祭祀は、「天」をまつる祭祀が皇帝の支配の正当性を示すものだった中国とは全く異なるもので、支配の正当性を示すものではなかった。そもそも天皇は天孫として「天」と一体だと認識されており*61、自らが統治する主体であるとの正当性を示す必要はなかったからである*62。それで国が治まるシステムになっていたのだ。魏志倭人伝には、魏からの使者が中国では罪人に施される刺青という野蛮な習慣を持ちながら、礼儀正しく、宗教政治で治まっている日本の状況に文化的なショックを受けたとされているのである*63。支配の正当性を示すものではない天皇の「祭りごと」をする場である大内裏は、中国の王朝や西欧の宮殿のように人々に権威を見せつける場ではないので壮麗である必要はなかった。大内裏は、平安中期には度重なる火災で維持が難しくなり、鎌倉末期には四囲が道路に面する京都の町中に里内裏(さとだいり)とし

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