ファイナンス 2024年10月号 No.707
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日本語と日本人(第7回)ファイナンス 2024 Oct. 29*8) 春風亭柳昇「与太郎戦記」、三遊亭圓生「鼠穴」、「芝浜」など。*9) ユーモアは、二つの離れたもの相反するものを結びつけたりするもので、そのセンスは英国で紳士の最も重要な要素とされている*10) 安野光雅、藤原正彦、2006、p111―12、118*11) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、文化科学高等研究院出版局、2019、pp53−56,96−98*12) アウグスティヌス『告白』第十一巻第二十章二六、岩波文庫*13) 中沢新一氏は、数学や物理学の進歩にはレンマ領域での探求が大切だとする(「レンマ学」中沢新一、講談社、2019、p212−273、p286−98)*14) 「言語の本質」今村むつみ、秋田善美、中公新書、2023,p152。「感情的な日本語」加賀野井秀一、教育評論社、2024、p193−98*15) 兼好は、私家の歌集も残している(「兼好法師」小川剛生、中公新書、2017、p148−50、182−86)*16) 中国では一般的に女性は漢字が読めなかったので、日本流の歌の交換による恋愛小説はなかった(「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p97)*17) 冷泉家の和歌の指導は、平安貴族になったつもりでその時代のことを歌にするものだという(アスペン、サロン/阿川尚之「相変わらずの京都」2022.9.01) たのが江戸時代だ。多くの庶民に楽しまれた落語には、現実の苦しさをウソでくるみながらウソを楽しむものが多い*8。掛け合いで成り立つ落語は、「ほら」を楽しむところからのユーモアのセンス*9を鍛えあげていった。ユーモアの神髄は意外性だとされているが、それは想像の飛躍そのものといえよう*10。日本語に、過去や未来といった時制がないのも、想像の飛躍が豊富な日本語の特性からのものと考えることが出来る。時制にとらわれていては「ほら」の世界は成り立たないからだ。「わかった人は手を挙げて」「行く人は手を挙げて」というのは、過去と現在と未来がまじりあった表現である*11。それに対して過去形や未来形を持つ西欧の言語では、過去や未来を現在に引き付けて認識してきた。アウグスティヌスは、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待であるとしていた*12。そのような認識からは、時空を超えての想像の飛躍はかなり制約されてしまうと言えよう。想像の飛躍が豊富な日本語は、論理(ロゴス)による認識だけでなく、直観(レンマ)による認識も尊重する言語だ*13。直観による認識とは、論理を超えた事物まるごとの認識である。日本の習い事では、弓道、茶道、華道のように説明なしに型から入るものが多い。仏教(仏道)も、祈祷、念仏、禅というように型から入るものが多い。型は論理ではない。雰囲気、位、品格をとらえるもので、能面や茶道具でも、それらをとらえた写しが尊ばれる。型は、主語のない日本語における変幻自在に立ち現れる「世間」だと考えることが出来よう。英語のオノマトペが声と音だけなのに対して、日本語のオノマトペが、声、音だけでなく動き、形、手触り、身体感覚、感情と幅広い守備範囲になっているのも、直観(レンマ)による認識を尊重する日本語ならではのことと言えよう*14。男女の恋愛を歌によって行なってきた日本人想像の飛躍が豊富な日本語の世界で、古くから発達してきたのが「やまと歌」(和歌)である。古今和歌集の仮名序には、「やまと歌」は「天地の開け始まりける時より出で来にけり」とされている。混とんの中から多様な神々が生まれてきて、男女の神の掛け合いから「国生み」が行われたとされる日本では、男女の恋愛が「やまと歌」によって行われてきた。異性への呼びかけが、貴賤を問わずに歌で行われてきたのだ。恋愛は想像の飛躍なくしては生まれない人間の行いといえよう。それを歌にして、しかもその恋愛の歌を柱にして文学が高度に発達してきたというのは、日本以外では見られないことだった。平安時代の貴族の恋愛は、相手の顔を見ることもない中で、先ずは相手を思う和歌の交換から始まった。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、若き日の紫式部が恋文の代書をしているシーンが登場していたが、平安時代には懸想文売りがいた。徒然草の作者、兼好法師も恋文(艶書)の代書をしていたという*15。14世紀には、艶書の文例集(「思露(おもいのつゆ)」)が編纂されている*16。「やまと歌」で恋愛をした日本人は、恋愛以外の場でも限られた文字空間での感情表現に様々な工夫を行い、その伝統が代々受け継がれてきた*17。枕詞(まくらことば)や歌枕、掛詞(かけことば)、更には本歌取りである。「徒然草」の冒頭、「日暮硯に向かいつつ」とあるのは、源氏物語宇治十帖に登場する浮舟(うきふね)が、光源氏の次男の薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)との間の三角関係で苦悩した末に出家した後の模様の描写からとられたとされている。平安貴族の文化が、京都でその文化に触れた鎌倉武士にも受け継がれていたのである。感情表現の工夫は、時代が下がって連歌や俳句が詠まれるようになると、調子を整えて様々なイメージを浮き出させる「や、かな、けり、なり、ぞ、がも」等の「切れ字」が多く使用されるようになっていった。

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