*1) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、新潮社、2022、p306−307*2) モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイター、2022,p306*3) 「なごみ」2024.3,三宅香帆、p76−80*4) 「なごみ」2024.1,三宅香帆、p84−88*5) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023p167−68*6) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p73)*7) 「妄想古典教室」木村朗子、青土社、2021、275−276 28 ファイナンス 2024 Oct.国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇ニック・チェイター教授の話ニック・チェイター教授によると、「私たちはみな、ほら話に担がれている」「ほら吹きは、自分自身の脳だ。脳という即興のエンジンは驚くほどの性能を誇り、そのときその場で色、物体、記憶、信念、好みを生成し、物語や正当化をすらすらと紡ぎ出す」。「そのほら話のベールは私たちを完全に包みこんでおり、そのようなベールがそこにあることにすら私たちは気づけない。それは、私たちが驚異的なまでに創作力のある臨機応変の推論者、そして創造的な比喩機械であり、散乱した情報の切れ端を溶接して一瞬ごとに整然とした一つの全体を創り出しているという驚くべきことを意味している」*1、「私たちは思考が『そのときその場の』でっち上げだとは思いもしない。前もって形作られた記憶、信念、好き嫌いを内なる深海から自分で釣り上げたのだ。そして意識的思考とはその内なる海のきらめく表面にすぎないのだと思い込まされている。だが、心の深みなるものは作り話にすぎない。自分の脳がその場で創り出している虚構なのだ。前もって形成された信念や欲望や好みや意見などないのであ前回、脳科学者のニック・チェイター教授が「言葉はこうして生まれる」という本の中で、脳にとって大切なのは想像の飛躍だとしていることを紹介した。想像の飛躍がふんだんにみられ、男女の恋愛を歌で行ってきたのが日本語の世界である。そして、その日本語の世界の背景には、八百万(やおろず)の神が混沌の中から誕生してきたという日本人の宗教観があると考えられるのである。り、記憶さえもが心の底の暗がりに隠れているのではない。心の奥はない。表面がすべてなのだ。つまり脳は、倦むことなき迫真の即興家であり、一瞬また一瞬と心を創り出しているのだ」という*2。「ほら」が豊富な日本語の世界「ほら」と言える話が豊富なのが日本語の世界だ。「時をかける少女」という映画があった。私がかつて税務署長をしていた尾道出身の大林亘彦監督の作品だ。主人公は時空を超えて変幻自在に活躍していた。小野小町の歌に、「うたたねに恋しき人をみてしより夢てふものは頼みそめてき」というのがある。夢の通い路で恋しい人に会った、もう一度、会いたいと頼む心情を素直に読んだ歌である。日本人は、夢の通い路で、遠くの人や過去の人、さらには未来の人とも会ってきた。平安時代後期の「とりかえばや物語」は、夢を通して他人と入れ替わる話である。「浜松中納言物語」では、亡き父が中国で転生して皇太子になっており、その父の母が日本でまた転生するという物語だ*3。平安時代後期から鎌倉時代初期に書かれたとされる「有明の別れ」では、隠れ蓑を使って透明人間になった姫が、男装をして活躍する*4。信貴山縁起や草双紙には、想像の飛躍そのものとも言える様々な物語が展開されている*5。そのような平安期の日本文学は、同時代の全欧州を圧倒していたという*6。室町時代に入っても、夢であった人と結ばれる恋の物語の「転寝(うたたね)草子」などが創作された*7。室町時代に成立した狂言には、ウソがばれて可笑しいものが多い。そして「ほら」を尊重する文化に磨きがかかっていっ日本語と日本人(第7回)―創造の飛躍と日本語―
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