黒田東彦前日銀総裁、東京大学講演「財政金融政策に関する私の経験」(前編)ファイナンス 2024 Oct. 13 IMFで国際通貨制度改革の議論に参加する(1975年〜78年)はないかとつくづく思います。その後も、アメリカと様々な約束をするにあたり、政府と約束するのはいいのですが、それを議会が受け入れてくれるかは全くの別問題です。直接議会と話をするというのも一つですが、議会と交渉するというのも変です。アメリカは世界一の経済大国、軍事大国でもあり、現在でも世界をコントロールしている国でもあるのですが、この国と付き合うのは大変だなと思いました。その後、1975年の夏にアメリカに行きまして、IMFの日本理事室の理事補になりました。当時はちょうど、IMF協定改正の議論が行われていました。先程お話しましたように、1971年にニクソンショックで米国がドルの金兌換を停止して、各国はドルとの固定相場制をやめました。IMF協定違反の状態が続いていたのですが、これをどうするかということでずっと意見が分かれていました。日本やドイツ、フランスは固定相場制を復活させることを主張していました。ところがアメリカは反対し、特にドルの金兌換は絶対に受け入れないということで、話が全く進んでいませんでした。そんな中、1976年1月にジャマイカ合意ができました。この時、実は私もジャマイカで会議に参加していました。その結果、暫定委員会という、現在の国際通貨金融委員会と似たような、24人くらいの大臣の会で合意ができまして、金の公定価格を廃止し、そして為替レートの制度については各国の選択に任せるという議論になりました。固定相場でもいいし、変動相場でもいいし、あるいは、カレンシー・ボード制などでもよいということになり、それに沿って1月から6月にかけてIMF協定の全面改正を議論しました。IMF協定を全面改正したのはこの時が最初で最後だったのですけども、為替制度を変えると他の条文にも影響してくるわけです。理事会での討議を1月から6月までやって、合意ができました。今でも覚えているのは、アメリカは変動相場で良いと言ったものの、貿易相手国が為替レートをわざと安くして輸出競争力を強くすることが無いようIMFが監視する、という条項を入れることを主張したことです。具体的にどの場合に、競争上の有利を得るために為替相場を操作していると言えるかどうかという基準が決まらなかったし、今でも決まっていないわけです。散々議論して、何らかの基準を理事会でガイドラインとして作ろうと言ったのですが出来ませんでした。今でも為替レートについて色々と問題が起こるわけです。一番大きいのは、G7諸国と途上国との間での問題です。G7での合意は出来ていますが、その中でも一定の監視をすることが一体どういうことを意味するのか未だに具体的には決まっていないわけです。私は一般消費税の経済効果の分析の担当となりました。消費税導入により景気にどういう影響が出るかとか、逆進的だと言われていた負担配分がどうなるか、物価への影響は大丈夫かといった点がありました。これについて、マクロモデルを用いたり、また、負担配分については家計調査の個票を用いるなど分析を行いました。その結果、食料品に課税した場合の逆進性の問題には、食料品については非課税にすれば解決するとしました。1979年1月に閣議決定が行われ、一般消費税を1980年度中に導入するように準備をしていました。ただ、第二次石油ショックが1979年10月頃から始まり、石油価格が上がっていく中で、第一次石油ショックの時のようにまたいずれ不況になるのではないかということで反対が強くありました。結局、1979年秋の総選挙で大平内閣が議席を大きく減らし、一般消費税の導入は見送られました。要するに、大きな増税というのは、当然ですが国民的合意がないとできないわけです。それがない中で、財政再建が必要だとか、所得税や法人税は増税できないだろうから、というだけで一般消費税を導入しようとしたことは、振り返れば無理だったと思います。ただ、その当時は財政を再建するためにはどうしても必要だということで議論がなされました。一般消費税の検討とその後の財政再建に関与する(1978〜81年)IMFに3年程いた後、私は日本に戻って大蔵省主税局調査課の課長補佐になりました。ちょうどその時は、一般消費税の導入で大騒ぎになっていました。
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