12 ファイナンス 2024 Oct.石油ショックへの対応に追われる(1973年〜75年)当時の大蔵省では、若手は1年間税務署長として働くことになっており、私も1年間いわき税務署の税務署長をしました。その後1年で戻ってまいりまして、国際金融局企画課の課長補佐になり、資本規制を担当しました。その時ちょうど、1973年10月に石油ショックが起こりました。今ではそんなにショックだったのかと思われるかもしれませんが、1バレル3ドルの原油価格が翌年に1バレル12ドルと4倍になったのです。今の原油価格は80ドル強ですから、3ドルから12ドルにあがることが世界的な経済ショックなのかと思われるかもしれませんが、当時から現在に至るまで物価水準が全体的に上がっており、3ドルから12ドルへの上昇が世界経済に大きな影響を与えたわけです。日本は石油を輸入していたので、国際収支が悪くなり外貨危機になる可能性がありました。そこで、それまでは円高にならないように、資本の流出を促進、流入を規制していた資本規制を180度転換し、流入を促進、流出を規制するということをしたわけです。私が企画課にいたのは1年間で、次に国際金融局国際機構課に移りました。当時は世界的には石油ショックはものすごく大きなショックを与えるということで、IMFでオイル・ファシリティという制度が作られました。これは、IMFが、産油国から借入れをして、石油輸入国に対し、通常のように財政金融の引き締めというコンディショナリティを課さずに、単に石油消費を節約すると言えば貸してあげるというファシリティを作ったのです。産油国はお金を使ってくれないので、世界的に需要不足で落ち込みます。その中で、特に輸入国は大幅な貿易赤字となります。財政金融を締めざるを得ないことになり、それは良くないということで、IMFは条件を緩め、お金をどんどん貸すことにしたわけです。これにアメリカは反対しました。どうせ産油国に集まったお金は先進国の金融市場に回ってくるに決まっており、そこで借りれば良いわけで、IMFが産油国に安全な投資先を提供する必要はないという主張です。アメリカは反対したのですが、日本を含む多くの国が賛成して、オイル・ファシリティが出来ました。日本は借りませんでしたが幅広く使われました。アメリカはオイル・ファシリティを否定する一方で、OECDに相互扶助的な「OECD 金融支援基金」を作ると主張し始めました。日本もOECDのメンバーでしたし、私はたまたま、その時国際金融局国際機構課でOECDを担当する課長補佐でした。アメリカの提案がOECDから回ってくるのをフォローして、最終的にシステムが決まって協定案になるまでずっと担当していました。結局、1975年5月のOECD閣僚理事会で、日本から大平正芳大蔵大臣が参加して協定に署名をしました。その後各国が批准すればその「OECD 金融支援基金」が出来るという話だったのですが、肝心のアメリカの議会が承認せず、結局この基金は出来ませんでした。このことから分かったのは、アメリカという国はtwo-government system、つまり政府と議会が別個のものであり、政府が約束したことを議会が守らないということです。このことはアメリカ人自身が良く言うことです。最近で言うと、OECD/G20 BEPSで、外国企業の課税に関する画期的な国際課税の合意ができ、OECDが協定案を作って、今後各国に批准してもらおうとしているのですが、アメリカの議会の理解を得るのに時間がかかっています。これはアメリカ政府も一緒になって作った国際課税の案ですが、議会が反対しているということで、実現していない可能性があるわけです。アメリカと政策で付き合う際、交渉する時には、いくら政府が約束しても、議会がそれを受けてくれるかどうかは全くの未知数です。そのため、アメリカ政府との約束は半分くらいディスカウントしても良いので
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