黒田東彦前日銀総裁、東京大学講演「財政金融政策に関する私の経験」(前編)ファイナンス 2024 Oct. 11 ニクソンショック後に変動相場制を主張する(1971年)公務員の労使関係を学ぶ(1967〜69年)私は1967年春に東京大学法学部を卒業して、大蔵省(現在の財務省)に入省しました。当然、財政金融政策に関する仕事に関与できると期待していたところ、配属されたのは大臣官房秘書課調査係というところでした。人事に関する仕事をするところだったので少しがっかりしました。為替は円高が進み、一方で物価の方はある程度落ち着いた動きをしていました。90年代になると成長率はさらに落ちました。金融バブルが崩壊し、金融機関の不良債権が増え、しかも、90年代の半ばから終わりまで、クリントン政権によるジャパンバッシングがなされました。自動車や半導体、パソコンなど競争力のある産業が潰れてしまいました。自動車は米国に移って生き延びたのですが、日本のGDP成長率が1.5%~1.8%になり、さらに2000年代にはデフレが続いて約0.5%の成長になりました。それが少し回復するのが2010年代です。2020年にはコロナの影響で大きくマイナス成長になりました。それからウクライナ戦争で石油価格の高騰等により輸入物価が急にあがり、成長率はあまり上がらないが物価は上昇するという状況が生じました。以上の経済的な背景を踏まえて、1967年以来の私の経験を説明したいと思います。仕事の内容としては総合職の採用の手伝い、職員の研修などでした。一番大きかった仕事は職員の海外出張の世話で、出張命令を出したり、公用旅券を取り付けたり、出張旅費を出してもらったりしていました。面白かったのは、公務員の労使関係についてです。昔も今もそうですが、公務員には団結権は認められている一方で、団体交渉権も争議権もありません。これが憲法上の問題ではないかと法廷で争われており、当時、内閣で公務員制度審議会を作り、どうするかが議論されていました。大蔵省としてもこの議論についていく必要があるので、当時の秘書課長の私的勉強会として、大学の先生や弁護士、元法制局の部長などを数人集めて、これについてどう考えるか勉強会をしていました。その時の議論がとても面白かったので、少しご紹介します。当時の通説としては、公務員がストライキを起こすと国民生活に大きな影響が出るので、争議権は認められない、代償措置として人事院勧告がある、というものでした。しかし、国民生活への影響については、警察や消防などには当てはまるとしてもすべての公務員に当てはまるかどうか分からないし、逆に民間の電力会社や交通機関にも当てはまってしまいます。研究会の法律専門家は、憲法83条の財政民主主義の下で、公務員給与は政府・国会が決めるべきものであり、争議行為を背景とした労使交渉で決めるべきものではない、という議論を展開しておられました。なるほどと思ったのですが、その後、最高裁の判例もそちらに寄っていき、結局、国家公務員法における団体交渉権と争議権を認めないということになり、今もそのままです。最高裁の判例もそのようになっており、確立されています。その後、オックスフォード大学に留学し、経済学者であるヒックス名誉教授の議論などを聞きました。留学から帰ってくると、大蔵省理財局国債課の企画係長になりました。当時ちょうど1971年8月にニクソンショックが起きて、1ドル360円が崩壊し、1ドル300円へと円高になる時代でした。当時は、公共事業を拡大して、国債発行額を3倍にするということで、国債課は忙しくしていました。日本政府は変動相場制から固定相場制に戻りたいと交渉していました。結局12月にワシントンのスミソニアン博物館でスミソニアン合意を結び、1ドル308円で再び固定することができました。私は、そうしたシステムは長続きしないし、特に金融の国際化が進んだ下では、固定相場制にすることにより金融政策の効果が薄くなってしまう、したがって、変動相場制にした方が良いのではないかと考えました。この考えを、大蔵省の広報誌である『ファイナンス』に書きました。その内容を『ファイナンス』の担当者に聞いたら、良いですよと、ということでした。もっとも、大蔵省として変動相場制から固定相場制に戻そうとしている時に、こういうことを書いたのは若気の至りでした。ただ、実際、スミソニアン体制は1973年に崩壊し、それ以来現在に至るまで変動相場制が続いているということになります。
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