ファイナンス 2024年9月号 No.706
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図4 旧三井銀行広島支店(現・広島アンデルセン)図5 福屋百貨店 42 ファイナンス 2024 Sep.路面電車と紙屋町・八丁堀主税局統計年報書によれば、昭和7年(1932)の土地賃貸価格の最高地点は堀川町になっていた。昭和35年(1960)の最高路線価地点は「堀川町とらや菓子店前銀座街側通」である。中心が東に移った要因には鉄道の引力がある。広島に鉄道が到達したのは日清戦争の開戦が目前に迫った明治27年(1894)の6月だ。神戸を起点に西に延ばしてきた山陽鉄道が広島駅を開業。駅は7川の手前、中心街から見て北東にできた。7月に戦争が始まったため、陸軍省の受託で広島駅から南下し宇品港に至る軍用線を敷設し8月に開業した。宇品港は、太田川河口の江波港を代替すべく築かれた大型船着岸可能な近代港湾で明治22年(1889)に完成していた。9月に大本営が広島に移され、翌月には広島に仮の議事堂が建てられて臨時帝国議会が開かれた。日清終戦までの7か月だが事実上の首都が広島にあった。もう1つは路面電車である。大正元年(1912)11月、広島電気軌道(現・広島電鉄)が広島駅前(現・広島駅)から相生橋東詰の櫓やぐら下した(現・原爆ドーム前)まで、南北軸は紙屋町から分岐して御み幸ゆき橋ばし西詰(現・御幸橋)まで開通した。翌月には櫓下から己こ斐い(現・広電西広島)に延伸し街の東西を貫く本線が完成した。路面電車の敷設のため整備された水路跡の幹線道路が新たな都市軸となった。東西軸の本線は外堀が埋め立てられた相生通り、南北軸の宇品線は運河「西せい堂とう川」が埋め立てられた鯉城通りである。鯉城通りには広島、住友両行に続き、昭和11年(1936)には日本銀行が移転してきた。こうして鯉城通りは大手町に代わる銀行街となった。日銀行舎は被爆による倒壊を免れ現存する。平成4年(1992)まで営業を続け、平成12年(2000)に市の重要有形文化財となった。昭和36年(1961)、最高路線価地点が相生通りの「八丁堀福屋百貨店前電車通」となる。街の東西軸が西国街道から相生通りに移転した。福屋は、昭和4年(1929)、広島初の百貨店として創業。昭和13年(1938)に地上8階の新館が本館向かいに開店した(図5)。隣には、岡山に本店を構え昭和29年(1954)に進出した天満屋があった。昭和48年(1973)4月、天満屋の隣に三越が開店。平成24年(2012)に天満屋が専門店ビルに転換する以前は相生通りに百貨店が3つ並んでいた。こうしたことが奏功し平成7年(1995)の最高路線価地点は「中区基町広島そごう前電車通り」となった。平成13年(2001)には地下街「紙屋町シャレオ」が開店。「おしゃれ」の逆さ言葉が命名の由来で、若い女性をターゲットにしたテナント構成が特徴だ。ターミナル機能を得た紙屋町商業面で水をあけられた紙屋町だが、昭和32年(1957)、広島市とバス事業者の共同出資の下、相生通りと鯉城通りの交差点の北西角地にバスターミナルが開業した。バス事業者が会社の枠を超えて乗り入れるタイプではわが国初の事例だった。昭和49年(1974)10月に広島センタービルとなり、広島そごうが開店した。ターミナル百貨店のバス版だ。その後、大手町の家電大手、第一産業(後のデオデオ、現・エディオン)やファッションビル化したサンモールなどと連携しつつ、地域一番店の座を獲得していった。平成6年(1994)、4月に地上35階建のNTTクレド基もと町まちビル(通称・基町クレド)が竣工。商業棟とホテル棟があり、ホテル棟にはリーガロイヤルホテル広島が入った。そして8月に新交通システムのアストラムラインが開通し、発着駅の「本ほん通どおり駅」が紙屋町にできた。鉄道駅が新設され、紙屋町のターミナル機能が高まった。

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