図1 本川の雁木 (出所)写真は図4を除き令和6年3月筆者撮影275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,510C1,520C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D図2 平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店)かつての繁華街は再生し水と緑と祈りの街へかつての繁華街は再生し水と緑と祈りの街へ 40 ファイナンス 2024 Sep.原爆投下の目印となった中心街広島を舞台としたマンガ作品に、こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社)がある。片かた渕ぶち須す直なおの脚本・監督でアニメーション映画化され、平成28年(2016)から公開された。映画版では昭和8年(1933)12月、物語の主人公、尋常小学2年の浦野すずが江え波ば港で母親に風呂敷に包んだ箱を背負わされるシーンから始まる。荷物は家業で養殖している海苔だ。北に約3km、本ほん川かわ沿いに歩けば約40分かかる中なか島じま本ほん町まちの料理屋へ配達を頼まれた。途中で船頭に声をかけられ、グリブネと呼ばれる砂利船に乗せてもらう。広島は、太田川が7川に分かれて広がった三角州の城下町である。広島城は鯉り城じょうと呼ばれ広島カープの由来となった。7つとは本川(旧太田川・本流)、猿猴川、京橋川、元安川、天満川、福島川、山手川だが、福島川と山手川は一本化され太田川放水路となった。浦野すずは、森永製菓(当時は森永食糧工業)の前の河岸にあった階段状の乗降場「雁がん木ぎ」で上陸する(図1)。今でも市街地の河岸に約400か所の雁木があり、水上タクシーの乗降場にも使われている。なお森永製菓の建物は元は藝げい備び銀行の本店だった。同行は県内一番行の広島銀行の前身である。目的地の中島本町は当時の中心街で、映画版ではクリスマス商戦の賑わいが描かれていた。同シーンで大正屋呉服店が登場する。現在の平和記念公園レストハウスだ(図2)。昭和4年(1929)の建築である。呉服店は昭和18年(1943)に閉店し、被爆当時は燃料会館だった。昭和32年(1957)に広島市の施設となった。町内には中島勧商場もあった。原作ではすずがキャラメルを買っていた。明治15年(1882)の開店で跡地に記念碑が立つ。勧商場とは様々な業種が入居する集合店舗で今でいうショッピングセンターである。中島本町が最高地価地点となったのは大正4年(1915)である。中島本町は本川と元安川に両側を挟まれた中洲の北端にあたる。広島県統計書によれば、筆者が確認できた中で最も古い明治12年(1879)以降、最高地価の場所は横よこ町まちだった。西国街道に沿って中島本町の隣の町で、元安川を渡った対岸となる。横町の北が細工町で、町内にあった島病院が原爆の爆心地となった。空からT字に見える相生橋を目印に投下したが風に流されたようだ。世界遺産「原爆ドーム」はチェコ人の建設家のJヤンan Lレッツェルetzelの設計で大正4年(1915)の竣工。元々は広島県物産陳列館だった。昭和28年(1953年)から広島市の所有となり、昭和41年(1966)に議会で永久保存が決まった。世界文化遺産となったのは平成8年(1996)である。物産陳列館とは要するにコンベンションセンターである。大正8年(1919)3月に催された「俘虜技術工芸品展覧会」でバウムクーヘ路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史第55回 広島県広島市第55回 広島県広島市
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