ファイナンス 2024年9月号 No.706
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た*37。ここからは、民衆の支持を得てヒトラーが「統治者」になってしまえば、とんでもないことになるということが出てくる。ファイナンス 2024 Sep. 23 *37) 「社会契約論」岩波書店、1954,p54*38) 「WEIRD」下、ジョセフ・ヘンリック、白揚社、2023、p322*39) 「アダム・スミス 共感の経済学」ジェシー・ノーマン、早川書房、2022、p92、113*40) 「道徳・政治・文学論集」D.ヒューム、田中敏弘訳、名古屋大学出版会、2011、p389*41) ジェシー・ノーマン、2022、p89日本語と日本人(第6回)西欧合理主義と保守思想実は、ルソーの社会契約論のような合理主義一辺倒の考え方に対しては、西欧においてもそれを否定する考え方が受け継がれてきている。例えば、アダム・スミスが「道徳感情論」で唱えていた考え方で、日本と同様に「世間」を道徳の基準とする保守思想である。アダム・スミスは、近代経済学の祖として知られているが、元々はエジンバラ大学の道徳哲学の先生だった。アダム・スミスの書としては「諸国民の富」が知られているが、スミスの主著はこの「道徳感情論」だ。その中でスミスは、他者との共感を基礎とした道徳を説いていた。アダム・スミスは、啓蒙思想からの西欧合理主義が生み出したユートピア的な思想に対しては嫌悪感しか示さなかったという。特に、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」といった文明以前の自然状態や、ルソーの野生人を理想とするような考え方はきっぱりと拒絶していた。社会が出現する以前の人間を論じても意味はない。なんとなれば人間は生まれつき社会的な動物だからだとしていたのである*39。同様の考え方は、スミスと同時代のデイビット.ヒュームという哲学者にも共有されていた。ヒュームは、道ルソーの社会契約論などと難しいことを言わなくても、今日の民主社会における言論には多くの問題点が存在している。社会が分断化する中、いずれの国の議会でもためにする議論が行われることが多くなっている。最近では、フェイクニュースの跋扈が問題になっている。そのような問題点を抱える西欧の民主制が、非西欧社会に移植されてもうまくいかないのは、ある意味で当然といえる。非西欧の人々の文化と不適合を起こし、政治、経済、市民社会の機能不全を招いてしまうのだ。そして、氏族、部族、民族集団間の内戦へと発展し、貧困、汚職などをますます悪化させることにもなりかねないのである*38。徳の基準には世論しかないとしていた*40。ヒュームやスミスと同時代のバーナード・マンデヴィルは、「人間に何らかの動機付けをするものは、二つしかない。利己心と恥である」としていた*41。先の大戦後、米国人のルース・ベネディクトが、西欧の「罪の文化」に対して日本を「恥の文化」だとしたが、西欧でも「恥の文化」が認識されていたのである。そのように西欧でも「世間」を道徳の基準とする思想は連綿と続いていたのだが、西欧人が啓蒙思想の時代に主語を導入した結果、自然物と並列の視点を失ってしまったことは否定しようもない事実である。主語制を導入した結果、冒頭で見たように「証拠より論」といった議論の仕方が跋扈するようになっているのである。そこで、ここで「証拠より論」の議論の仕方の基本にある弁論術について考えて見ることとしたい。そもそもギリシャの民主制で行われていた弁論術は、ソクラテスの対話術の延長線上にアリストテレスが確立したものだった。それは、語る人の人格を基本に、受け手の感情を喚起し、その上で論理力で相手の納得を得る術だった。ところが、同じくギリシャで行われていたソフィストの弁論術は、語る人の人格とは無関係に論理力を基本に受け手の感情を喚起して納得を得る術だった。そのようなソフィスト的な弁論術が「証拠より論」の手法になっているといえよう。それを、語る人の人格を基本にしたソクラテス的な弁論術の世界に戻していくためには、他者との共感を基礎としたアダム・スミスやデイビット・ヒュームの道徳を思い出す必要がある。それは、「世間」を前提とした弁論術で、主語のない日本語では当然とされているものである。そんなところから西欧民主制の言論空間を工夫していけないものかというのが筆者の問題意識である。この点は、本稿の最終回で考えてみることとしたい。いずれにしても、近代の西欧民主制は、それを非西欧社会にも適合させていくような工夫がなければ、今後、世界をリードしていくことはできないと思われる。そもそも、歴史を振り返ってみれば、西暦1000年ころのイスラム法学者サイード・イブン・アフマド

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