ファイナンス 2024 Sep. 21 *22) 「〈世界史〉の哲学 現代編1」大澤真幸、講談社、2022、p100*23) ユダヤ教では神の言葉が全てであり、キリストのような預言者が誰であるかは重視されていなかった。キルケゴールによれば、キリストだけが特殊だった(大澤真幸、2022、p62)。*24) ローマ帝国では、キリスト教を国教とした前年の391年にテオドシウス帝によって公の場での生贄が禁止された(スティーブン・グリーンブラット、2012、p115)*25) 「世界失墜神話」篠田知和基、八坂書房、2023、p91−121*26) 佐藤賢一、2023,p142−45*27) コラーンも翻訳してはならず必ずアラビア語で唱えられるが、アラビア語は一般の人にもわかる言葉である*28) 例えば、日本の守護聖人は、フランシスコ・ザビエルである*29) フスは、聖書のどこにも「教皇」などという言葉はないと言って、カトリック協会の腐敗を厳しく批判した(スティーヴン・グリーンブラット、2012、p208)日本語と日本人(第6回)ギリシャ語で書かれた新約聖書ここで、「神は愛です」と説くキリスト教の誕生について考えてみることにしたい。「神は愛です」として万人に福音を説く教えは、ユダヤの民だけが神に選ばれたとするユダヤ教の教えとは全く異なるものだった。そのように異質なものが誕生した謎について「〈世界史〉の哲学、現代編Ⅰ」を著している大澤真幸氏は、旧約聖書の中にあった申命記革命を応用したものだったとしている。ご関心のある方は同書を参照していただきたいが、申命記革命とは、神殿の改修の際に「発見された」とされる申命記法典に基づいて、礼拝所をエルサレムに集中させて偶像を捨てさせたという革命であった。それは、申命記法典が「発見された」という「事実」に基づいて、解釈の大幅な変革を行うものだった。それによってユダヤ教の教えにどのような具体的な命令も代入できるという仕組みが導入された*22。そしてその仕組みを利用して申命記革命の「反復」として、キリスト教が成立したというのである。もう少し具体的に述べると、旧約聖書の神はイメージしてはいけないものだったが、キリストという形で神が少なくとも一度だけは現れるという「革命」によって現れ、神との契約が改められた*23。それまでの旧約聖書の神は、人と対話をして人間に生贄を要求する神だった*24。アブラハムには息子のイサクを生贄として要求したのである。それに対して新約聖書では、キリストが自らの死によって人間の罪を贖(あがな)い、それを通じて神との間で新たな救済が約された(新約)。人々は、キリストへの信仰によって神との間にその新たな契約を結び、神に服従する生活の下に新しいいのちを受けることとなった。神は対話の相手ではなくなり、疑うことなくひれ伏すものになったのである。さて、ここまで見てきて気になるのが、キリスト教を受け入れた人々は、多くの神々がいるギリシャ神話やゲルマンの多神教の世界を常識としていたはずだということである。それは、旧約聖書で描かれていた一神教の世界とは全く異なる世界だった。ギリシャ神話の神々は、日本神話と同じくカオス(混沌)の中から生まれてきた。カオスの中からガイア(大地)が生まれ、ウーラノス(天)との交わりによって多様な神々が生み出されたのだ*25。そのように多様な神々がいた世界に一神教のキリスト教が普及していって、なぜ問題が生じなかったのかというのは気になる点だ。その点は、キリスト教が土着の宗教の神や精霊をキリスト教の天使や聖人に置き換えて巧みに取り込んでいったということと*26、ローマ・カトリック教会が聖書を一般の人には分からないラテン語で独占していた*27ということによって説明ができるように思われる。神はイメージしてはならないとされているのに、ローマ・カトリックでは様々な職業や地域ごとに多くの守護聖人がいて教会にはそれらの像が安置されている*28。それらの像は、人々が信仰していたゲルマンの精霊などを置き換えたものだったというわけだ。そのような守護聖人は、聖書のどこにも書かれていない。ユダヤ教のシナゴーグやイスラム教のモスクには、そのような像は置かれていないのだ。ところが、それに疑念を抱かせなかったのが、ラテン語で書かれた聖書の独占だった。聖書を英語に翻訳した英国の神学者ウィクリフの聖書は焚書とされ、その衣鉢を継いだボヘミアの宗教改革者フスは火刑にされた*29。そして、教会では人々の常識に反するような旧約聖書に記されている出来事は、およそ説かれることはなかったのだろう。ちなみに、神との対話をすることがなくなった人々にとっては、キリスト教と土着の神々との関係について思いめぐらす必要もなかったのだと考えられる。その結果、キリスト教が広がっても、旧約聖書の世界とは程遠いゲルマンやケルトの神話が生き続けることになったというわけである。ゲルマンやケルトの森には、日本と同じように精霊や魑魅魍魎が住み続けた。イソップ童話の「金の斧、銀の斧」は、樵が森の
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