ファイナンス 2024年9月号 No.706
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ファイナンス 2024 Sep. 17 *1) 米国の財政再建は、クリントン政権で成し遂げられた(「失われた90年代と我が国財政についての考察」松元崇、ファイナンス、VOL36.No6,p53)*2) 「閉ざされた言語・日本語の世界」鈴木孝夫、新潮選書(増補版)2017,p199*3) 「古き佳きエジンバラから新しい日本が見える」ハーディー智砂子、講談社α新書、2019、p66−67、91国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇日米金融協議で感じたとまどい筆者が大蔵省(当時)証券局業務課の補佐だった時、日米金融協議(1985年)が行われた。その場での米国側の要求には、随分ととまどわされるものがあった。とにかく自分たちが正しいという姿勢で議論してくるのである。同様のことは、通商産業省(当時)の日米自動車協議や半導体協議、建設省(当時)の日米建設協議でも繰り広げられたと聞く。当方からは米国の双子の赤字(貿易と財政の赤字)を指摘し、その是正を求めた。その後、米国は財政赤字縮小の道を歩んでいくのだが*1、日本に対しては赤字財政拡大による景気対策を求めてきた。自国の貿易赤字縮小のためである。自国の都合のための論理の使い分けであった。当時は、それは経済覇権を日本に奪われるのをおそれる米国の外交戦略からのものだろうと考えていたが、その後、日本語についての考察を進めるにつれて、そのような米国の議論の仕方の背景には主語を使う英語があると考えるに至っている。前回、中国と日本の歴史認識の違いの背景に、主語がある中国語と主語が無い日本語のもたらす世界観の違いがあるという話をしたが、同様のことは英語と日本語の間についても見られる。それにしても、どうしてかつては主語制でなかった英語が主語制の言語になっていったのだろうかというのが今回の主要なテーマである。この点に関して興味深いのが、鈴木孝夫氏の「閉ざされた言語・日本語の世界」の指摘である*2。それによると、イタリアでは自分の考え方でいかに相手を説得するかが大学で学ぶべき基本的な研究とか学習の態度だという。イタリア人は真理などそっちのけで、自分の考え方でいかに相手を説得し、それによって社会での地位を獲得するかを学んでいるようだ。ドイツ人も議論が事実と合うか合わないかよりも、議論がそれ自体として矛盾なく、いかに緻密に構成されているかの方に気を使うらしい。事実とは、生の未だ整理されていない、思考の素材にすぎないもので、これをある特定の角度から論理的に選び取り組立てていって、はじめて価値が生まれる。したがっていわゆる事実よりも、むしろ論理的に構成された理論の方が、一段と高い真実だと考えているらしい。万人にとって承服出来る客観的な事実など前提とすることが出来ないので、「論より証拠」ではなく「証拠より論」だというのだ。同様の指摘は、英国エジンバラでファンド・マネージャーをしていたハーディー智砂子氏からも行われている。同氏によると、英国人やフランス人は、およそ根拠がないことでも堂々と主張する。間違った発言でも沈黙よりはいいという感覚だ。日本人なら、間違ったことを言ったら迷惑になるとか、つまらない意見だと思われたら恥ずかしいなどと思うが、そんなことはおよそ考えずに、ほとんど何の知識もないのに堂々と自信満々に持論を披露するという*3。主語を使う西欧語の誕生そのような西欧人の議論の仕方の背景に、主語を使う言語があるというのが筆者の考えだが、西欧の言語が主語を使うようになったのは近代になってからだ。「英語にも主語はなかった」を著している金谷武洋氏によると、主語を使わないラテン語を共通言語としていた西欧で言語が主語制になったのは、フランスの啓蒙思想の時代からだった。啓蒙思想の時代に、それま日本語と日本人(第6回)―主語制になった英語―

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