ファイナンス 2024年8月号 No.705
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ファイナンス 2024 Aug. 51(出所)令和5年4月7日に筆者撮影プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)図3 中島町の福岡市赤煉瓦文化館 尾道には県内最古の銀行があった。明治11年(1878)開設の第六十六国立銀行で、広島銀行の前身の1つである。住友銀行が初めて支店を出した地でもある。尾道の対岸の新居浜に住友別子銅山があった。香川県の最高地価地点は県都高松市ではなく西回り航路の多た度ど津つ町にあった。明治43年(1910)に宇高連絡船が就航する前は、尾道-多度津を結ぶ多尾連絡船が就航していた。尾道駅から多度津駅まで連絡していた背景もあってJR土讃線の起点は多度津駅にある。西回り航路に限らず瀬戸内海に面する地域は航路の拠点が中心地となった。愛媛県の最高地価は松山ではなく八幡浜である。「伊予の大阪」と呼ばれるほどに海運と商業で賑わった。県内初の銀行は隣の保ほ内ない町ちょう(現・八幡浜市)川かわ之の石いしで発足した。明治11年(1878)創業の第二十九国立銀行で現在の伊予銀行に連なる。伊予銀行の八幡浜支店は明治29年(1896)に創業した八幡浜商業銀行が源流で、現存する行舎は豫州銀行本店だった昭和11年(1936)の建築だ。伊予銀行の支店となってからも地元では「本店」と呼ばれた。九州でも、宮崎県の最高地価は五ヶ瀬川の河口港で瀬戸内航路につながる延岡だった。大分県は周防灘に面する中津である。延岡も中津も県庁所在地ではない。ちなみに、九州で最も地価が高かった都市は福岡でなく長崎だった。幕末明治の開港地かつ上海航路の拠点である。福岡は九州で2番目だった。当時の中心地の中島町は中州の北端部分で、現在の昭和通りの北側にある。那珂川の西中島橋を渡ると、橋のたもとに福岡市の道路元標、背後の角地に福岡市赤煉瓦文化館がある。元の日本生命九州支店で明治42年(1909)の建築だ(図3)。その前は福岡銀行の前身、第十七国立銀行の本店があった。佐賀県の最高地価地点は佐賀市ではなく伊万里にあった。有田産地を中心とする磁器の積出港として栄えた。こちらも貿易港である。街道と水辺の街だった鉄道以前の時代明治の最高地価地点からうかがえるのは、鉄道以前の時代は貿易港や舟運拠点が地域の中心だったことである。そして鳥の目に対する虫の目で見れば、その1つ1つが街道と水辺の街だった。意識せずとも街は十分ウォーカブルで、舟運や水源に使うための水辺が身近にあった。高低差の力で水道を引ける範囲に限られた街は元々コンパクトだ。街道沿いの町家の周囲には緑豊かな屋敷街があった。車道の代わりに運河が走り、道といえば歩道だった。生まれつき「居心地が良く歩きたくなるまちなか」(ウォーカブルシティ)である。戦後、駅前道路が拡幅され、街なかの運河は埋められた。行政、ビジネス、商業の中心施設が集まり都市は過密になったが、近年は車社会やネット社会の影響による空洞化が問題となっている。しかし、見方を変えれば都市に清流が戻ってきたと言えないだろうか。近年の地価上昇の特長は観光だ。地域資源を活用し、エリアの価値向上に成功している地域は路線価も上昇している。高山市は人口約8万人ながら路線価は県都岐阜市に次ぐ県内2位だ。県内第2の都市の大垣市は高山市の約2倍の人口だが、最高路線価は半分に満たない。盛岡市のように旧市街が脚光を浴びるケースも出てきた。川越の街も外国人観光客に人気の街歩きスポットだ。伝統的な中心地には長い歴史の積み重ねがある。銀行の行舎をはじめとする近代建築、町家の連なり、舟運時代の水辺や街道を活用することでエリアの価値を高めることができる。そうした切り口で見れば明治の最高地価地点は地域資源の宝庫である。次世代まちづくりの素材がここにある。

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