ファイナンス 2024年8月号 No.705
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(出所)令和5年8月19日に筆者撮影図2 尾張町の碑と尾張町町民文化館北國街道沿いの中心地今年は新幹線の延伸効果で北陸3県の最高路線価も上昇した。上昇率が最も高かったのは福井駅前で小松駅前がこれに次ぐ。いずれも駅前だが、明治時代の最高地価地点はすべて北國街道沿いだった。富山市はアーケード街の東端近辺の東ひがしあいもんちょう四十物町が一等地だった。四十物とは塩魚の意味で、魚市場にちなんだ町名だ。東京の日本橋本ほん船ふな町ちょう、盛岡の肴町もそうだが、魚市場が街の中心となったケースはいくつかある。舟運ルートの河岸の街織田信長が天下布武の拠点とした金華山(旧称・稲葉山)のふもと、1300年以上の歴史をもつ鵜飼で知られる長良川の手前が岐阜の旧城下町である。明治の最高地価は旧城下町の靭うつぼ屋や町ちょうだった。町に面する尾張石川県金沢市の一等地は尾張町だった。金沢城の北側で、大手門いわば正面玄関の前にあった。図2の尾張町町民文化館は明治40年(1907)に建てられた元の金沢貯蓄銀行で、後に北陸銀行尾張町支店となった。土蔵造りの行舎は明治に多かったが、現存するのは珍しい。昭和9年の最高賃貸価格は下近江町で、現在の近江町市場だ。戦後、一等地が城の南西の片町に移り、香林坊を経て現在の駅前に至る。福井市は戦後早々から福井駅前が最高路線価地点だったが、明治期は北國街道沿いの照てる手て上かみ町ちょうが最も地価の高い場所だった。城下町の南側に流れる足羽川に架かる九つくも十九橋の北詰の近辺にある。そこから駅に向かって移っていったが駅前には到達していなかった。街道は、鵜飼漁で獲れた鮎鮨を運ぶルートだったことから「鮎あゆ鮓すし街道」、「御鮨街道」という別名がある。川沿いの湊町、玉井町、元浜町からなる「川原町」に古い街なみが残っており観光客を集めている。京都の一等地は新京極だった。明治5年(1872)に区画整理でできた繁華街だ。今でこそ修学旅行生とおみやげ店のイメージが強く、京都の中心といえば四条河原町を想起するが、四条通が明治44年(1911)、河原町通は昭和2年(1927)に拡幅されて市電ルートになってからの話である。それまでは河原町通の1筋東の木屋町通が街の南北軸だった。木屋町通に沿って高瀬川運河と市電が走っていた。運河は伏見が終点で、宇治川、淀川を辿って大阪に至る。大阪市の明治期の最高地価地点は天神橋筋一丁目だが、その対岸の天満橋南詰に八はち軒けん家や浜はま船着場があった。明治43年(1910)、この場所に京阪天満橋駅が開業する。当時は大阪側の発着点だった。その後、舟運から鉄道に主要交通手段が移るに従って大阪の都市軸は堺筋に移っていった。昭和9年の最高賃貸価格地点は証券取引所界隈の北濱2丁目である。市電ルートだった堺筋には銀行や百貨店が多かった。目を見張るのは大阪市の地価が全国で最も高かったことである。大正12年(1923)に発生した関東大震災で首都東京が甚大なダメージを受けたこともあった。この頃、わが国2番目の地下鉄が御堂筋に開通した。昭和8年(1933)に開通したのは梅田から心斎橋までの区間である。戦争が終わるまでに天王寺駅まで延伸し、大国町駅から分かれた支線が花園町駅まで開通した。後の四つ橋線である。地下鉄の開通を契機に大阪の南北軸が堺筋から御堂筋に移動し現在に至る。瀬戸内航路の港町大阪、神戸を含め、瀬戸内海に面する府県では西回り航路の寄港地が最高地価地点になるケースが多い。神戸から西の都市で、明治時代に最も地価が高かったのは下関だ。下関市西にし南な部べ町まちは明治26年(1893)に日本銀行西部支店が置かれた場所である。大阪に次ぐ西日本2番目の支店だった。関釜航路の発着点でもあった。広島市は中国地方どころか広島県の中心でもなかった。広島県で最も地価が高いのは尾道だった。 50 ファイナンス 2024 Aug.

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