ファイナンス 2024 Aug. 33日本語と日本人(第5回) *70) 「訓読論」中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉、勉誠出版、2008、p315*71) 日本も戦前の一時期ではあるが、中国と同様の認識手法をとったことがある。皇国史観である。*72) 日本経済新聞、2024.08.01,4面*73) 「日本のコミュニケーションを診る」バントー・フランチェスコ、光文社、2023、p69それにしても中国が、自らの創り出した「正史(中国流のマルキシズム)」に反するような異なる価値を信じる組織を「5毒」として徹底的に弾圧している姿は、今日の日本人には違和感のあるものである。この点について中国における「正史」の歴史をさかのぼってみると、唐の時代に同盟関係にあったウィグル族の碑文にソグド文字と漢字によるものが彫られていた。漢字文面は唐側を良く見せるようなものになっていたが、後の「正史」はそれをさらに粉飾しているという*70。そのように他の民族の歴史理解に配慮することなく史実を自らの認識に基づいて粉飾して新たな歴史を創り出し、それを指導原理としていく中国と、史実には民族ごとに様々な見方があり、自らの考えだけに基づいて粉飾を行うことは正しくないとする今日の日本との間には、認識の仕方に基本的な違いがあるとえいよう*71。そして、そのような中国の「正史」を創り出す認識手法は、今日でも行われている。例えば、この原稿を書いているところで、「中国、上川氏発言を無断修正」というニュースが入ってきた*72。日中外相会談での中台関係をめぐる上川外相発言を、中国側が中国の立場に近い内容に無断で修正して公表した。それに対して、日本の外務省が水面下で「正確性に欠ける」と申し入れたというのである。それは、ウィグル族の碑文に彫られたソグド文字と漢字の違いと同様の話といえよう。それにしても、そのような中国と日本との認識手法の違いは、どこから来るのであろうか。その点についての筆者の考えは、主語がある中国語と主語が無い日本語の違いが背景にあるというものである。イタリア人の精神科医であるバントー・フランチェスコ氏の「日本のコミュニケーションを診る」によると、「安定した自尊心を持ち他者の評価をそこまで気にしない」個人主義者は、自分の行動を正当化する思考回路に走るという*73。天命を受けた中国の皇帝は、安定した自尊心を持ち他者の評価を全く気にしなくていい存在だった。そのような皇帝が、「自分の行動を正当化する思考回路」として新たな歴史を正しいものとして創り出してきたわけである。そしてその背景には、主語を持ち「世間」より前に自分を位置付ける中国語が創り出した個人主義の強い社会があったと考えられるのである。そのような中国人の世界観は、主語がなく「世間」の中で自分を位置付ける日本語を持つ日本人、多くの人に少しずつ依存できるようになることが自立だとする日本人からは、なかなか想像しがたいものだ。本稿の第1回に「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」と述べたが、「敵を知る」ためには、そのような言語のもたらす世界観の違いを知る必要があるといえよう。次回は、英語について見ていくこととする。今日、世界を席巻しているのが主語を持つ英語だが、英語の世界観にも自らの認識こそ正しいとして議論するという日本語の世界観とは随分と違うものがあるのである。
元のページ ../index.html#37