ファイナンス 2024年8月号 No.705
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*42) 「中原」の解釈については前回参照。南シナ海については、北村滋、2022、p143、302−303参照。*43) 「ソクラテスからSNS 「言論の自由」全史」ヤコブ・ムシャンガマ、早川書房、2024,p421−22*44) 「監視資本主義」ショシャナ・ズボフ、東洋経済新報社、2021、p445、p448*45) 菊池秀明、2022、p52*46) 宮本雄二、2023、p40*47) 「日本人のための安全保障」兼原信克、日本経済新聞出版、2023、p141*48) 「国家の総力」兼原信克、高見澤将林編、新潮新書、2024、p228−236*49) 北村滋、2022,p308参照の時代に拡大した「中原」*42を統一することによって中国共産党が「天命」を受けた正当な政権であることを証明する。それによって「易姓革命」を完結させるという考え方を述べたものだと解釈できるのである。実は、その考え方は、かつては中華民国政権を打ち建てた蔣介石総統も主張していたものだった。1990年代初頭まで、中華民国は「大陸反攻」を掲げて清朝の時代に拡大した地域に対する軍事的勝利を目指していた。そのために、1949年に敷いた戒厳令を1987年まで続けて強権的な国内統治を行っていたのである。そのような中国政府の強権的な姿勢に対しては、周辺諸国だけでなく国内からも異論が出てきそうなものだが、実は、それを抑え込んでいるのがIT技術を使った監視社会による統治である*43。と聞くと日本人はとんでもないと考えるが、多くの中国人はそれを歓迎しているという。中国では、中華人民共和国建国以来何十年にもわたって監視と人物調査が当たり前に行われてきた。生体情報対応の国民IDカードも抵抗なく導入されてきた。数億人の都市住民には毛沢東時代に導入された幼少期からの「档案」(人事記録制度)が実施されており、1990年代半ばまで中国の一般的な辞書には「プライバシー」を意味する「隠私」という言葉は載っていなかったという*44。そして、今日、中国政府の監視は海外にも及んでいる。2023年2月現在、中国は100か所以上の「海外警察署」を設置して、亡命した中国人に対する監視や干渉、場合によっては送還を行っているという。その背景には、華僑は故郷への送金を欠かさなければ、事業が失敗しても元の村に戻ることが出来るという伝統的な仕組みがあるのだという。中国人は、世界中どこにいても中国人というわけだ。そのような感覚を持つ多くの中国人は外国にいて中国の国家主権が及んできても違和感を感じないのだという*45。と言われても、まだ違和感が残るのだが、そこは前回見たような「人知の仕組み」の伝統の下、多くの中国人は「天は高く皇帝は遠い」、上に政策あれば下に対策ありということで割り切っているのであろう。中国における「自由」と「人権」2022年の北京冬季オリンピックでは、競技場の壁に「自由、民主、共同富裕」のスローガンが掲げられていた。日本人の感覚からすると、香港で言論を厳しく規制し始めていた当時の中国で「自由」や「民主」があったのだろうかと思うが、中国人にとっては何の違和感もなかったという。そのことについて、元中国大使の宮本雄二氏は、今日の中国では、西欧流の「自由」や「人権」が、民衆が大切にする「義」の中にはまだ入っていないからだとしている。せいぜいが、これまで支配階級が説いてきた「仁」と同じようなもので、内面的・本質的な性格を持たないものと認識されているという。ただ、中国社会も、ようやく生きるための生存権の世界から、それ以外の人権を考える世界に足を踏み入れてきているので、欧米と同じになることはないが、今後変化が期待されるという*46。元内閣官房副長官補の兼原信克氏も、2023年まで総理を勤めていた李克強氏には変化の兆しを感じていたという*47。筆者は、中国大陸で西欧流の「自由」や「民主」が本来の姿で認識されないのは、中国が閉じられた言語空間になっているからだと考えている。中国は、インターネットを世界から分離し、入国した外国人には中国仕様のスマホを持たせて常時監視するといったことによって*48、閉じられた言語空間を創り出している。そのような言語空間での認識は、意思疎通が模範文例集によるという伝統に従ったものになる。模範文例集は毛沢東語録や習近平語録なので、それらに制約される。そこには中国流の「自由」や「民主」しか出てこないので、人々はそれに添った認識しかできなくなっているというわけだ*49。それに対して、それと異なる状況が生まれてきているのが台湾だ。台湾では、1990年代初頭に「大陸反攻」が放棄され、それに合わせて言論空間が解放された。そこに新たに西欧流の「自由」や「人権」の考え方を含んだ模範文例集がも 30 ファイナンス 2024 Aug.

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