ファイナンス 2024 Aug. 29日本語と日本人(第5回) *37) 「現代中国は何を失ったか」陳立行、国際書院、2022*38) 「信仰の現代中国」イアン・ジョンソン、白水社、2022、p29−31、152、365*39) 中国とバチカン(ローマ・カソリック教会)の間には、様々な摩擦が伝えられている*40) 「我的日本語」リービ英雄、筑摩書房、2010、p199*41) 北村滋、2022、p128退官後、2016年の日本経済界訪中団の一員として中国西域などを訪れる旅に参加したが、そこで見聞きしたのは、秦の始皇帝の兵馬陵のように地中に埋められていたものは実に良く残っているが、地上にあった文物は文化大革命でほとんど失われてしまったということだった。それは、高校時代、学園紛争を経験し、中国の文化大革命を賛美する学友を身近にもっていた筆者にとっては衝撃的な話だった。それらの学友には、人間的にも大変魅力的な人が多かったのである。文化大革命は、文物といった物理的なものだけでなく人々の信頼と絆のよりどころとなっていた家族、宗教、市民社会、学問、政治的自由といった領域をも破壊するものだった。善良、慈悲、同情、思いやりなどの伝統的な倫理道徳は厳しく非難、批判され、個人には「自己批判」が求められた。近所の人が道端でぐったりしているのを助ければ、自分も有罪になったという*37。かつて、中国にはほぼすべての職業に神がおり、ほぼすべての街角に寺院や祠があって儀式が行われ、人々は儒教や仏教や道教の信仰がまじりあった宗教を信じていた*38。船乗りの神は媽祖、大工の神は魯班、武術家の神は孫悟空、医者の神は華陀という具合であった。それは、神学理論などほとんどなく聖職者もいないに等しい民衆の宗教空間だった。それが失われていったのである。そのような中国共産党の支配は、実は中国の伝統的な「華夷秩序」の考えに基づく「人知の仕組み」の現代版だと理解することが出来る。歴代王朝が「華夷秩序」で「儒教」を置いていたところに「マルキシズム」を置いたというわけだ。そして、科挙で儒教がその内容を融通無碍に変えながら統治の道具になったのと同様に、マルキシズムも融通無碍な形で統治の道具(中国流のマルキシズム)になっているというわけだ。筆者は、かつてある中国人に中国の社会主義市場経済におけるマルキシズムの理論内容について質問したことがあるが、確たる答えは得られなかった。内容が融通無碍にされているのは、仏教やキリスト教*39などについても同様である。習近平総書記は2014年、ユネスコで、「仏教は古代インドで始まった。中国に入ってから、仏教は長期にわたって中国固有の儒教と道教と混ざって発展し、遂に中国らしい特徴を持った仏教になった。そうして中国の人々の宗教的信念、哲学、文学、芸術、礼儀、慣習に深い影響を与えた」と演説したが、今日の中国の仏教にどれくらい仏教本来の教えが残されているのか疑問である。なにしろ、リービ英雄氏の「我的日本語」によると「中国共産党に洗脳されると、お金の話しかしなくなる」と中国人のガイドが言うようになっているというのである*40。中国の倫理道徳がそのようになっている背景には、中国共産党が「華夷秩序」のもう一つ上にある「天命思想」の発想から、自らが創り出した「正史(中国流のマルキシズム)」に反するような異なる価値を信じる組織を、何よりも警戒していることがあると思われる。チベット、台湾、ウィグル、民主派、法輪功が「5毒」とされて徹底的に弾圧されているのである*41。強権的な統治の背景にあるものそれにしても、北京官話による言語の統一を始めとする今日の中国の強権的な統治は、中国の「天命思想」の伝統からは外れているように見える。「天命思想」の実践である「易姓革命」の考え方からすれば、皇帝たらんとするものは軍事的な勝利の直後に、大急ぎで武器を捨て、自分が根っからの「文人」であったかのように振る舞って徳治を行わなくてはならないはずだからである。その疑問への答えは、中国共産党が「易姓革命」の考え方に則った軍事的勝利をまだ得ていないと認識しているからということであろう。実は、それを示していると考えられるのが、2021年7月の習近平総書記の中国共産党創立100周年を祝う式典での演説である。そこで、習総書記は「中華民族の偉大な復興」を謳いあげたがその際、中国は清朝の時代に「天恵を得た国」として、チベット、モンゴル、そして新疆を含む中央アジアの東半分ほどをその版図としたが、それらの地域に対する支配権を確固たるものにしなければならないとしたのである。それは清朝
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