ファイナンス 2024 Aug. 27*17) 「中国の論理」岡本隆司、中公新書、2016、p157、164−166*18) 「中国・韓国の正体」宮脇淳子、ワック、2019、p131、144*19) 岡田英弘、2021、p31、宮脇淳子、2019、p146*20) 「言語の力」ビオリカ・マリアン、KADOKAWA,2023、p209*21) 「越境の中国史」菊池秀明、講談社、2022、p26,27,30、59−60*22) 岡田英弘、2021、p141、299*23) 「曠野の花−石光真清の手記(2)義和団事件」中公文庫、2017*24) 岡田英弘、2021、p59*25) 宮脇淳子、2019、p187、194*26) 菊池秀明、2022、p175−185*27) 「唐」森部豊、中公新書、2023,p92。中国が、そもそも「遊牧文明である」ということについては、「ユーラシア時代の日本文明論」与那覇潤、ファイナンスNo704,p58−59、参照。日本語と日本人(第5回) された*17。日本語の「てにおは」にあたる「的」「在」「里」「化」「式」「感」「型」「性」「界」「力」「観」などの言葉が導入されて新しい中国語が生まれたのだ。1918年には、中華民国教育部は、日本のふり仮名をまねた「注音字母」という表音文字を公布した*18。日本語直訳の「時文」や新しい白話文などが試みられた。ただ、それらの試みは必ずしもうまくはいかなかった。魯迅は話し言葉に近い「白話文」を試みたが、その試みはそれが話し言葉に近づけば近づくほど他の方言の話者には難解な文体になっていって失敗したという*19。それは、中国各地で話されていた言語が実に様々だったからだった。日本の標準語導入のようなわけにはいかなかったのだ。偉大な中華文明を育んできた漢字によるコミュニケーション中国各地の言語の間には、ドイツ語とフランス語、ロシア語くらいの違いがある*20。上海語、広東語、福建語などは、先住民族の言語に古代漢語がかぶさったもので、北京語とは別系統のものなのだ*21。ブルース・リーが登場する香港映画が、かつて東南アジア全域に輸出されていたが、必ず英語に加えて漢字の字幕がついていた。華僑でも、出自が違えば香港映画のセリフを理解できなかったからだ。東南アジアの華僑が広く使っていたのは片言(かたこと)の広東語(ベーシック・カントニーズ)で、それは、広東語が他の方言よりも文語に近く漢字で書けて筆談に使えたからだという。福建語などは、漢字では書けなかったのだ*22。筆談に関しては、筆者が谷垣禎一元財務大臣からうかがった話が興味深い。元大臣のお母さんは、戦前、中国大陸で特務活動を行っていた影佐禎昭陸軍中将の娘だったが、お父様から日本軍の特務員は中国で日本人と認識されることはなかったと聞いていたという。筆談でコミュニケーションを行っていたからだろう。筆者が部長として出向していた熊本県の出身で、日露戦争前に中国大陸で活躍した石光真清の自伝には、中国大陸で活躍した女性の話が出てくるが*23、筆者にはどうして日本の普通の女性にそんなことが出来たのかというのがかねてからの疑問だった。その謎が、谷垣元大臣の話で氷解した。つまり、漢字の筆談で何も困らなかったのだ。前回ご紹介した、唐の時代、阿倍仲麻呂が活躍できたのと同じだったのだ。そのような中国大陸の各民族の間には、漢字を使うということ以外には共通のアイデンティティはなかった*24。それは、中世ヨーロッパでラテン語が知識人の共通言語だったからといって、共通のアイデンティティなどなかったのと同じことだった。そのように共通のアイデンティティがないのに、中国大陸では、見て分かる漢字の活用によって、唐(鮮卑系ともされる)や元(蒙古族)、清(満州族)といった異民族を含む王朝の統治*25が行われて華麗な中華文明が花開いていったのである*26。そのような歴史を持つ中華文明は、騎馬民族などの文明も自然に受け入れてきた、おおらかなグローバル文明だった。例えば、唐の則天武后は、前夫の息子に娶られて権勢をふるった。そんなことは漢族の儒教文化から言えばとんでもないことだったが、遊牧民族の風習としては当然のことだった*27。偉大な中華文明が発展していった背景には、話し言葉と書き言葉が分離していたことを利用した漢字による多様な異民族統治の仕組みがあったのである。北京官話による漢字の読み方の統一今日、中国では、その偉大な中華文明を育んできた優れた統治の仕組みを崩壊させかねない政策がとられている。話し言葉と書き言葉の分離を否定する政策がとられているのだ。北京語を基にした「北京官話」(普通話:プートンホワ)での言語の全国統一の政策である。それは一見、秦の始皇帝が行った漢字の読み方の
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