*10) 「李白」海江田万里、アジア太平洋観光社、2024、p143−44*11) 「漢字とは何か」岡田英弘、藤原書店、2021、p60*12) 岡田英弘、2021、p95−96*13) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p74*14) 本稿第2回参照*15) 竹内照夫、1981、p12*16) 「中国古典小説集、1−12卷」明治書院、2006−2009で、詩聖と言われた李白は自作の詩を大声で吟じるのが大好きだったという*10。しかしながら、そのような難しい約束事の結果、漢詩は庶民には程遠い存在になってしまった。今日の中国人でも、北京語だろうが上海語だろうが、どれだけ中国語を話せても、漢詩を聴いただけで意味を理解できる人はまずいないという*11。そんな漢詩の世界からは、庶民の素朴な歌を含む「万葉集」のような文学は生まれなかった。東洋史学者の岡田英弘氏によれば、品詞の区別がなく、接頭辞や接尾辞、時称もなく、並べ方もどんな順序でもいい漢文では言葉の微妙なニュアンスはすべて抜け落ちてしまうという。そこでは、日本語でのように「もののあはれ」を表現することはできないという。豊かな漢詩の世界を思い浮かべると、そんな馬鹿なと思われるが、岡田氏によれば、有名な杜甫の「春望(国破れて山河在り)」も、日本人が勝手に日本語化して情緒を感じているのだという*12。日本人は永年にわたって漢文を読み下し文にして日本文として読んできたので、そう感じるのだという*13。確かに漢詩には、我が国の和歌にあるような、ある物にこと寄せて自身の心を歌にする「心物対応構造」*14のようなものは存在しない。ただ、漢詩には自然を読んだものも多く、そのような漢詩は容易に日本語化できた。自然に主語は必要ない。そこで、主語のない日本語にもなじみやすかったのだろう。そして日本人はそのような漢詩に奈良・平安の時代から親しんできた。江戸時代の文人にも荻生徂徠をはじめとして漢詩を詠む人が多かった。明治になっても西郷隆盛や森鴎外など多くの人が漢詩を詠み、今日でも漢詩に親しんでいる人は多い。漢字を日本語化した日本では、中国語が出来なくても漢詩に親しむことが出来た。それは英語が出来なくては英語の詩に親しめないのとは大違いだった。中国人と日本人の間で、漢詩への感じ方に異なるものがあったとしても、日本人も中国人も漢詩の華麗な世界に深く親しんできたのである。民衆文学に目を転ずると、そこにも極めて豊かで多彩な世界が広がっている。神話が儒教に則って解釈されるようになった中国では、神話伝説の類は雑説とか小説と呼ばれて価値の低いものとされたが*15、そんな中でも、漢、魏、六朝の時代には、古典的な文章語である「文言(ぶんげん)」で書かれた様々な小説が生まれた*16。唐代には、口語に近い書き言葉である白話が誕生し、虚構を交えた「伝奇」「志怪(怪を志(しる)す)」小説が生まれた。明代には、「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」などの物語りが生まれ、古くからある笑話にも傑作が生まれた。清代には、強烈なロマンチシズムを持つ「聊斎志異」などが生まれた。そして、そのような多彩な中国文学は、わが国に大きな影響を与えた。明代の笑話は、江戸の小咄(こばなし)に、小説は江戸の上田秋成(「雨月物語」)や江戸から明治にかけて活躍した三遊亭円朝(「牡丹灯籠」)に大きな影響を与えた。さらに時代が明治や大正になっても、唐代の小説が芥川龍之介(杜子春)や中島敦(山月記)、太宰治(竹青)などの作家に大きな影響を与え続けたのである。また、明治維新期に創り出された新しい日本語の上に、従来の漢文とは全く異なる中国語の文体が創り出中国の言論空間中国の文学が華麗な発展を遂げたのに対して、極めて窮屈だったのが言論空間だった。前回ご説明したように、知識人どうしでも経書や史書といった古典に則った模範文例に添った漢文を通じてしか意思疎通が出来なかったからだ。実は、その状況を相当程度打破したのが本稿第3回で紹介した明治維新期に日本が創り出したおびただしい翻訳漢語、和製漢語と欧米語を下敷きにして創り上げた新しい日本語で、中国に新しい思想をもたらす土台になった。そこで創造された新しい漢語は、中国の古典とは何の関係もない言葉だった。それは、経書、史書などを良く知らない、尊重しない、仮名を創り出して漢字を日本語化してしまうという融通無碍な日本人のなしうる技だった。 26 ファイナンス 2024 Aug.
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