ファイナンス 2024年7月号 No.704
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(2)テクノロジスト至上主義2.ほんとうに「第二地域」はユーラシアのみか?(1)道徳(宗教)と政治の一致宮崎市定『東洋的近世』1.中国史にも「封建制」は実はある(1)遊牧民としての「始皇帝」共産主義への道は、全人類が歩む普遍的なコースではなく、「第二地域」に限られた特徴に過ぎない。だから「第一地域」に属する日本は安心して、西側世界の一員であればよい。そうした含意をともなって、梅棹の歴史観はヒットしました。しかし2022年にロシアがウクライナに侵攻した際、梅棹風に言えば、当初は「第一地域」が結束してロシアを撃退することが叫ばれました。しかしウクライナ戦争の展開は、むしろいまや「第二地域」が予想を超えて強大になり、簡単には押し戻せないことを示している。私たちは朝鮮戦争以来のユーラシア史の流れが、ちょうど反転する歴史の転換点にいるのです。梅棹さんは「第二地域」はユーラシアの中心部に限られたものであり、両端にある日本と西ヨーロッパはまったく別の世界だと唱えたのですが、近日はそれも怪しくなってきています。例えば、梅棹さんが「第二地域」の特徴として挙げるのは、オスマン・トルコ帝国のスルタン(世俗的な最高権力者)とカリフ(宗教的な最高権威者)が同一人物で、ロシア帝国でもツァー(皇帝)が正教会とつながっていた「政教一致」です。今日だと1979年にイスラーム革命が起きた後の、イランがそうした体制ですね。ところが「第一地域」である欧米でも、近年は「政教一致」に向かうかのような流れが生まれています。つまり、道徳的に正しいことが「そのまま政策になるべきだ」とする発想が高まっている。例えば、欧米のリベラル派や左派がエコロジーをうたって、どれほど経済的に損害を出しても「脱炭素化せよ」と主張する。あるいはアメリカの宗教右派が聖書を「文字どおり」に解釈して、中絶の禁止やLGBTの排斥を訴える。いまや先進国ほど左右問わず、政治が「政教一致」的な方向に傾いているのです。もう一つ、先進国で見られる不穏な兆候が「テクノロジスト至上主義」です。梅棹さんはロシアや中国の社会主義化を評して、これは「第二地域」には封建制がなく、ボトムアップでは近代化できないためだと論じました。したがって「皇帝」のように全権力を握るスターリンや毛沢東の下で、「緊急技師団」として有能な人材を前衛党の官僚に起用し、トップダウンで国民を指導する形でしか工業化ができないと。封建制が存在しない地域では、そこそこに豊かで経営者としての体験も持つ、知識あるブルジョワ層が育たない。だから独裁者が上からテクノロジーを普及させて、「このやり方でやれ」と命令せざるを得ないというわけですね。しかし2020年からのコロナ禍では、当初は中国共産党に限られていた「ロックダウンして、政府が定めた規則を国民に強制する」やり方が、先進国にも模倣され広まってしまいました。それが終わった後でも、日本ではいまだに「AIに政策を決めさせて、人間は黙って従う社会が合理的」と吹聴する学者がいたりします。梅棹さんが「第一地域は第二地域と違います」と述べたような、牧歌的な時代が終わりつつある。むしろ従来は「ユーラシア限定」だと思われてきた特徴が、日本も含めた先進国でも姿を現しつつあるのが現在だと、受け止めるべきでしょう。二冊目は、京都大学で教えた中国史の泰斗である宮崎市定の『東洋的近世』(1950年)です。同じ京大でも、梅棹さんは理学部出身の人類学者なので、「ユーラシアの両端には封建制があり、真ん中にはない」とざっくり分けて議論します。本人も、ケッペンの気候区分をモデルにしたと認めています。一方で宮崎さんは歴史家なので、「中国史の展開を細かく追うと、実は中国でも封建制を取り入れた時期がある」と書いている。時系列を採り入れることで、また違う見方ができるわけです。この宮崎の系譜を引く、京大系の東洋史の研究者がつねに強調するのは、「中国とは、そもそも『遊牧文 58 ファイナンス 2024 Jul.

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