ファイナンス 2024年7月号 No.704
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区役所跡ハレザ池袋折戸通り王子電気鉄道→都電荒川線雑司ヶ谷道市電跡ファイナンス 2024 Jul. 53図2 市街図(出所)筆者作成(旧)巣鴨村・西巣鴨町(旧)巣鴨町卍卍卍卍旧丸井(東横)東武丸物↓パルコ旧三越東京芸術劇場武蔵野↓西武ルミネ旧緑屋↓旧WAVE南池袋公園中国人街赤羽線・山手線(旧・日本鉄道品川線)池袋六ツ又西巣鴨町役場→豊島公会堂跡アニメイト本店アニメイト巣鴨刑務所→東京拘置所跡サンシャイン60サンシャインシティイケサンパーク豊島区役所造幣局跡巣鴨高校大塚駅山手線旧・日本鉄道豊島線田畑貨物線→常磐線乗入庚申塚白木屋跡三業通り染井霊園高岩寺真性寺西友巣鴨駅街道筋廃線跡市電車庫→都バス営業所 東京市電が大塚駅前に到達し王子電気軌道と乗り換えできるようになった。この年、山手線の池袋駅、大塚駅、巣鴨駅の乗客数で、大塚駅が、前年までトップだった巣鴨駅を追い越している。翌年には降車客でも追い越した。その後、池袋駅に抜かれるまでの7年間は大塚駅の乗降客数が3駅中トップだった。製紙工場があった王子周辺から乗客が流入し大塚駅前は賑わった。現在、駅前に「大塚三業通り商店街」がある。三業地とは料理屋、芸妓置屋、待合(貸座敷)の3業が集まる花街を意味する。商店街の名前に往時の名残がある。巣鴨エリア初の百貨店も大塚にできた。昭和4年(1929)、白木屋が大塚駅北口駅前に分店を開店。昭和12年(1937)に改装し5階建の店舗となった。昭和31年(1956)、浜松本店の松菱に経営が移り東京松菱になる。松菱ストアーの店名で営業していたが、3年後の昭和34年(1959)に閉店した。建物は平成29年(2017)まで残っていた。乗換拠点・郊外住宅地だった池袋今年3月からJR池袋駅の発車ベルは、池袋に本店を構える家電量販店、ビックカメラのテーマソングである。昨年7月に変更されたが、池袋駅の西側に東武線、東側に西武線の謎を指摘した歌詞が頭に浮かぶ。説明すると、元々は国鉄池袋駅の西側に東上鉄道、東側に武蔵野鉄道の駅があった。まず大正3年(1914)に池袋と川越を結ぶ東上鉄道が開業する。大正9年(1920)、旧武蔵国の東部地域で伊勢崎線を経営していた東武鉄道に合併され、現在の東武東上線となった。東上鉄道池袋駅ができた翌年の大正4年(1915)、池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道が開業した。昭和21年(1946)、前年に吸収した(旧)西武鉄道の名前を継承し西武鉄道となった。(旧)西武鉄道は現在の西武新宿線を経営していた。東上鉄道、武蔵野鉄道とも東京側の発着点は巣鴨を希望していたが、市電と競合する山手線の内側に乗り入れられず、手前で90度カーブする形で池袋駅に横付けした。郊外電車の登場に加え関東大震災の影響もあり大正から昭和初期にかけ巣鴨エリアの人口が急増。豊島区が発足して昭和14年(1939)末には現在とほぼ同水準の約30万人となっていた。もっとも池袋自体が郊外住宅地といった趣で、大正10年(1921)に大塚駅の乗降客数を上回っても池袋駅はさらなる郊外と都心の乗換駅の位置づけだった。当時の郊外移転といえば大正7年(1918)に旧築地居留地から池袋駅の西側に移転した立教学院がある。周辺には貧しくも気鋭の若手芸術家が集まり、池袋モンパルナスと呼ばれるようになった。発展を嘱望された一方、エリアの中心街としては大塚、巣鴨がその役割を保っていた。昭和16年(1941)の東京市統計においても、宅地売買価格の最高は巣鴨一丁目(巣鴨駅周辺)、賃貸価格は西巣鴨二丁目(旧町名・大塚駅周辺)だった。ターミナル百貨店と戦後池袋の発展戦後は名実ともに池袋がエリアの中心となる。昭和30年(1955)の最高路線価地点は現在のグリーン大⛩⛩⛩⛩

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