図1 とげぬき地蔵の縁日275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,510C1,520C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)令和6年5月4日に筆者作成中山道の街、江戸の境界の街の巣鴨昭和7年(1932)、巣鴨町と西巣鴨町その他2町が統合して豊島区が発足した。現在の巣鴨駅周辺が巣鴨町で、現在の折戸通りから西側は西巣鴨町だった。西巣鴨町は町に昇格する前は巣鴨村といった。サンシャインシティは通称「巣鴨プリズン」があった場所である。要するに巣鴨駅から池袋駅まで地域としては巣鴨だった。今でこそ名実ともに池袋が中心だが、戦前は旧中山道、巣鴨地蔵通り商店街が巣鴨エリアの中心だった。白山通りから旧中山道が分岐するところが巣鴨地蔵通り商店街の南端である。ここに真言宗豊山派、醫王山東光院眞しん性しょう寺じがある。巣鴨で地蔵と言えばとげぬき地蔵が有名だが、眞性寺にも地蔵菩薩像がある。江戸六地蔵尊の1つで、江戸に発する旧街道の出入り口に配置された。中山道の眞性寺の他、東海道、奥州街道、甲州街道、水戸街道、千葉街道に5つある。江戸市街地の境界に着眼すると東海道は青物横丁駅の近くの品川寺、奥州街道は浅草寺の裏手の東禅寺、甲州街道は新宿2丁目の太たい宗そう寺だ。千葉街道の永代寺は門前仲町だが、地蔵含め現存せず名称を引き継いだ(新)永代寺が近隣にある。巣鴨は市街地の北辺にあたる。白木屋百貨店が進出した大塚街道から鉄道の時代に移り、巣鴨エリアの中心は大塚に移った。きっかけは明治44年(1911)に開通した、黎明期の郊外電車、王子電気鉄道である。現在の都電荒川線で、最初は大塚駅から現在の飛鳥山駅(飛鳥上山駅)に至る路線だった。大正2年(1913)年、とげぬき地蔵は曹洞宗萬ばん頂ちょう山ざん髙こう岩がん寺じの本尊、延命地蔵菩薩の通称である。正確に言えば霊験で抜けたのは棘ではなく誤飲した折れ針だ。本尊を転写した紙片の「御おみ影かげ」を飲み込んだところ、嘔吐物と一緒に針に貫かれた御影が出てきたという。フランスで多くの巡礼者を集める「ルルドの泉」と同じく癒しの奇跡である。眞性寺に比べれば歴史は浅く、髙岩寺が巣鴨に来たのは明治24年(1891)である。その前は上野駅前にあったが区画整理で移転を余儀なくされた。新しい土地でどうにか参拝者を集めようと、明治30年(1897)に24世住職の巨こ海かい道どう雄ゆうが露天商の協力を得て4・14・24日の縁日を立案した。これが現代に続く賑わいのはじまりとなる。巣鴨駅が開業したのは明治36年(1903)である。日本鉄道豊島線の駅だった。元々、赤羽駅から東京市街を迂回して品川駅に至る品川線があった。豊島線は品川線から分岐し、田端駅から現在の田端貨物線を経て常磐線に乗り入れするための路線だった。当時の品川線には池袋駅がなかったため、豊島線を通すにあたって駅を新設して分岐点とした。豊島線には他に巣鴨駅と大塚駅が設置された。明治45年(1912)、都心から見て巣鴨駅の手前に東京市電の巣鴨橋停車場ができる。大正2年(1913)は駅を越え巣鴨車庫前まで延伸された。現在の都バス営業所の場所である。 52 ファイナンス 2024 Jul.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史第53回 東京都豊島区(巣鴨・大塚・池袋)第53回 東京都豊島区(巣鴨・大塚・池袋)街道から駅前に移った「巣鴨」の中心街道から駅前に移った「巣鴨」の中心
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