ファイナンス 2024年7月号 No.704
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*64) 岡田英弘、2021、p88*65) 「述語制言語の日本語と日本文化」日本語と英語の間、金谷武洋、2019、p293*66) 菊池秀明、2022、p188―89、191−217*67) 岡田英弘、2021、p22、113−16、122、129、322*68) 田中克彦、2021,p108(ヘルムート・ギッパー「言語研究のための基礎」1963)*69) 岡本隆司、2016、p163*70) 「言葉は国家を超える」田中克彦、ちくま新書、2021、p114大げさに、動作は派手に、声も大きく、芝居がかってきて、話の内容は断定的、教条主義的になり、微妙なニュアンスはあらかた吹っ飛んでしまうという*64。まずは、しっかり論理を組み立てて、自己主張の為に大きな声で話す(500-3000ヘルツ)*65というわけだ。そのような中国人の世界への発信力は、日本人と比べると格段に強いということになっている。ただ、中国人が論争で物事を決するのを基本としていると言っても、言葉が通じないとなるとそうは行かない。かつて漢人が越境していった南中国では、19世紀半ばに先住民族との間で激しい「械闘」(武器を持って争うこと)が繰り広げられたが、その背景には言葉が通じないことがあったという。械闘は、「例えば壁越しに聞こえてくる隣の家の会話が全く聞き取れない」という状況で起こった*66。今日、南シナ海で繰り広げられている中国海警による力の行使も、一種の「械闘」ととらえることが出来るのかもしれない。漢文によるコミュニケーションの難しさ漢文が名詞も動詞もなくテニオハも語尾変化もないためにいかようにも解釈もできたということは、そのような漢文では中国人同士でも新たな思考をコミュニケートすることが困難だったことを意味していた。岡田英弘氏によれば、そこで伝えたい情報の核心になるべく近い意味を表す漢字をいくつか選び、それを古典や経典の文章に則って並べ直すことが行われてきたという。ところがそれでは、古典や経典にない、新しい思想や事物を叙述しようとすると、受け手の側にそれを理解するのに無理が生じる。そこで、分かりきったことしか伝えらなかった。そこで、建前と本音の乖離、総てが建前の世界が行われることになった。それが漢文の恐るべき性質だという。岡田氏によれば、その結果、中国は文字だけで言葉のない国、建前だけで本音のない国になってしまった。漢字の表皮を中国からはがした後には、国語らしい国語が見つからない。漢字を抜いてしまうと中国にはフィクション同様の存在しかなくなってしまうとしていた*67。そこまで言うのは言い過ぎのように思われるが、NHKの世界のニュースで毎朝報道されている北京発のニュースが中国政府の建前ばかりを発信してるのを聞いていると、さもあろうかと思わされる指摘である。中華人民共和国の政治家で哲学者だった張東蓀(1887-1973)は、そのような中国語で、きちんとした政治議論ができるかどうか、中国で生じる様々な政治問題は中国語の構造の為に生じているのではないかとの問題提起を行っていた*68。清末民初のジャーナリストで、政治家、思想家でもあった梁啓超は、日本語が読めるようになって思想が一変したという。中国が「天下」ではなく、「列国」のうちの「一国」だと認識するようになり、「国民」を誕生させなければならないという考えに到ったのだという*69。中国の漢字の「天」には、天帝の統治する所という一通りの意味しかなかったので、それまでそんなことは考えたこともなかったが、日本語の「天」には、訓読みのものを含め、歴史的に様々な意味が込められていたからである。台湾総統だった李登輝が「日本精神(リーベンチェチン)」を唱えた背景にも、漢字に多様な意味を読み込んでいる日本語が台湾の民主主義のために必要だとの判断があったのであろう。漢文による漢字文化圏の形成何か漢文に厳しい話になってしまったが、ドイツの言語学者だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もなく、従って字と字の間の論理的な関係を示す方法がない漢文が、受け手に多くの文法的補填を求めるという精神の働きを要求するために、かえって豊かになるとしていた*70。確かに、中国で展開されてきた思想には極めて多様で深遠なものがある。また、「表意文字」で、かつ「表語文字」でもある漢字で構成される漢文には、漢字に含まれる概念を明確に表現しつつ、だれにでも容易に理解できるという大変な長所がある。そのおかげで言葉の違う民族同士のコミュニケーションが円滑に行われ、各民族の文明が交わることによって偉大な 20 ファイナンス 2024 Jul.

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