ファイナンス 2024 Jul. 19*49) 「古典」という素材と「対話」という手段を通じた研修を行っている米国発祥の研究所*50) 東京大学名誉教授、中世哲学、美学の研究者。世界形而上学会の会長も務めた*51) 「今道友信 わが哲学を語る」今道友信、鎌倉春秋社、2010,p177*52) 道教は、戦国末期からの神仙信仰を基にし、漢末に成立した(竹内照夫、1981、p326)*53) 「影山輝國先生論語義疏」20220915経学研究会、しまうまプリント、p39*54) 「2035年の中国」宮本雄二、新潮新書、2023、p35*55) 竹内照夫、1981、p318、p319*56) 今道友信、p204−229。竹内照夫、1981、p320*57) 「中国農村の現在」田原史起、中公新書、2024、p158−163、268−69参照*58) 「論語」里仁編15*59) 「論語」擁也*60) 宮本雄二、2023、p31−32*61) 山本尚、2020,p51−53*62) 宮本雄二、2023、p34*63) 『日本復活への道』「文芸春秋、2023.5」岡藤正広、p107日本語と日本人(第4回) の解釈が様々であることは、筆者が日本アスペン研究所*49でお世話になった今道友信*50先生から学んだことである。今道先生は、「論語」里仁第4.1にある「子曰、里仁為美、擇不處仁、焉得知」の「里仁為美」を、朱子学では『田舎は朴訥なので仁を美徳だとしている』としているが、『仁に里(おる)を美(よし)と為す』とすべきだとされていた*51。かつて中国大使を勤められた宮本雄二氏によると中国の「義」は、仏教化した道教に導かれたもので、そこに人倫道徳の根源的なものを感じるのだという*54。中国の底辺社会の価値観は道教的で、支配階級が重視した儒学はどこにも出てこないのだという。そもそも、儒教の教典を読んで理解できるのは「読書人」に限られていたので、それは当然の成り行きでもあった。儒教の人間観は、合理的・理性的、君子本位で、民衆的ではなかった*55。民衆は大きな気持ちを大事にする老荘思想や神秘主義、迷信などを大切にしてきた*56。そもそも、「易姓革命」の下での統治は、それがいかに合理的に説明されていても「人知の仕組み」だった。「人知」の世界では、上下おしなべて国家よりも自分を、そして家を大事にすることになるという。上に政策あれば下に対策ありである。それは、「天は高く皇帝は遠い」ということであった*57。中国民衆の宗教以上、「華夷秩序」や「中華思想」に関して、中国における儒教の話をしてきたが、中国の人心は上下おしなべて、儒教よりも仏教や道教*52を好んできた。中国社会で伝統的に重んじられてきたのは、儒教で大切だとされてきた「仁」といったものではなく、道教的な「義」だったのだ。ちなみに、論語にも「義」を重んじる話が出てくる。お父さんが羊を盗んだ時に子は父のために隠すという話である*53。言語による論理で論争する漢族中国大陸では、飢饉や外敵の侵入が起こるたびに多くの命が失われ、民衆は食べ物のある安全な地方に移っていった。移っていった代表的な人々が客家と呼ばれる人たちだった。移っていった人々は条件の悪いところにしか住めず、元からの住民には冷たくされた。そこで中国人は、よく働きよく学ぶようになったのだという*60。そのような中国人は、他人はしばしば競争相手であるので、まずは人を疑うことから始めるという。頼れるのは自分の血縁者だけだと思っているので、弱者には温かいが、こちらが強くなると俄然対抗的になる*61。生活環境が厳しかった中国においては、自己主張しないと生きていけなかったので*62、契約や約束にこだわらず、相手を誤解してでも、有利な立場に立とうとする。日本人のようにすぐには謝らない。誤ったら最後、こちらが悪いことになるからだ。そこで、本稿第1回でご紹介したように、子供に「人にだまされるな」と教えることになったのだろう*63。なお、孔子が弟子たちに様々なことを説いた対話集である「論語」には、「仁」以外の徳も説かれていた。「夫子の道は忠恕のみ」*58ということで、忠実で同情心が厚いこと、真心と思いやりがあることが最も重要だとされていた。また「中庸」も重要な徳とされていた。「中庸」とは、「過不足なく偏りのない」徳のことだが、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とされていた*59。そして、儒教の聖典である四書の『中庸』では、「誠」を「中庸」よりも重要な概念としていたのである。そのような中国では、社会通念として人に手を出すことはご法度で、言語による論争で物事を決しなければならないとされている。夫婦喧嘩も路上に出ての論争として行われる。英語や日本語で物腰穏やかに話す中国人も、一旦中国語に切り替わると、途端に表情は
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