ファイナンス 2024年7月号 No.704
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ファイナンス 2024 Jul. 17日本語と日本人(第4回) *28) 2000年代の中国では年間7万件を超える騒乱が起こったが、その後デジタル技術で抑え込んでいる(宇野和夫「中国の群衆犯罪事件の概念と特徴」2005,https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F9213072&contentNo=1*29) 竹内照夫、1981、p337。易姓革命の思想は、同じ姓を持つ皇帝が天命を受けたり失ったりする(易姓)ということだったので、姓をもたず、天と一体化している日本の天皇にはなじまないとされた(大澤真幸、2016、p69)。江戸時代の雨月物語の中に易姓革命を説く崇徳天皇を西行がいさめる話が出て来る。*30) 1973〜74年に中国で展開された林彪,孔子を批判する政治運動*31) 「〈世界史〉の哲学 東洋編」大澤真幸、講談社、2014、p100*32) 「日本史のなぞ」大澤真幸、朝日新聞出版、2016、p79、81*33) 「華夷秩序」の成立と同時期に「会昌の廃仏」が行われ、仏教というよりも、景教(キリスト教)や祆教(ゾロアスター教)、明教(マニ教)が姿を消*34) 「唐」森部豊、中公新書、2023、p278−9*35) 王朝は、中国理念の文化世界(華夷秩序や正史)を継承するものとされた(「訓読論」中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉、勉誠出版、していった2008、p313)。*36) 「中国の論理」岡本隆司、中公新書、2016*37) 菊池秀明、2022、p98れた*28。ちなみに、易姓革命の思想は孔子にはなかったもので、孟子(紀元前372年-290年)が述べたものだった*29。興味深いのは、天命を受けるのは漢族に限らなかったことである。元朝も清朝も、漢族ではなかったが天命を受けたとして王朝を建てた。唐も、実は北方民族の鮮卑系ではなかったかとされている。その感覚からすれば、日本の豊臣秀吉が中国大陸に覇をとなえようとしたのもおかしなことではなかった。中国の歴史書では、秀吉について朝鮮半島出兵への対応の負担が明の滅亡につながったとの記述はあるが、韓国でのように極悪人として描かれていないのはそのためであろう。逆に言えば、元が日本に元寇を行ったのも責められるべきことではなかったのである。易姓革命で天が下す天命には特別の内容はないので、新たに皇帝になった人物の命令がそのまま法としての効力を持った(人知の仕組み)。それは、歴代の統治の道具とされてきた儒教をさえ否定してしまうものだった。中国共産党の毛沢東は、中国の新たな皇帝として、批林批孔*30によって儒教の否定まで行ったのである。今日、中国は孔子学院を世界中に展開しているが、それも儒教を広めるというよりも、現在の皇帝である習近平主席の人知としての世界戦略であろう。いずれにしても「革命」という名前がついているが、「易姓革命」には特別の内容はないので、西欧の革命のように社会の変革につながるものではなかった*31。社会学者の大澤真幸氏は、そのような革命は、革命を否定する革命、真の革命を防止するための革命だったとしている*32。華夷秩序「人知の仕組み」が儒教をさえ否定してしまうものだったといっても、それは近年になってのことで、歴代、易姓革命で帝位についたほとんどの皇帝は、周辺諸民族を支配する道具として儒教に基づく「華夷秩序」を活用してきた。唐の時代まで、東ユーラシアでは多くの民族がグローバルなレベルで覇を競っていたが、安史の乱を境に唐はグローバルな大帝国から、中国本土のみを支配する国家へと変貌していった*33。東洋史学者の森部豊氏によると、その際の漢族と非漢族の対立から生まれてきたのが「華夷秩序」だった*34。華夷秩序は、「野蛮な周辺民族」と「文明的な中国人」を前提に、儒教の説く「礼」を周辺民族を支配するための道具と位置付けたものだった*35。そして、そのような「華夷秩序」から生まれたのが「中華思想」だった。華夷秩序の外延に組み込まれたのが朝鮮とベトナムで、それ以外の西欧やアジア・アフリカ諸国は「化外の民」の国とされた*36。さらにその枠外とされたのが日本だった。日本は一時、足利義満が明の永楽帝から日本国王に冊封されて朝貢貿易を行い、華夷秩序の外延に位置づけられそうになったが、天命思想が天皇制と相いれないということで枠外にとどまった。それに対して、外延に組み込まれた朝鮮王朝は深く中華思想を奉ずるようになり、漢族の明が滅びると満州族の清に公式には朝貢しつつも、独自に小中華を自認するようになった。満州族の清は、「機能主義的な華夷観」を採用して漢族の漢文明が中心だとする「華夷秩序」の考え方を修正していった。清朝三代目の皇帝となった雍正帝は、科挙にさえ受かれば漢族でなくても政治に携われるシステムを活用し、それによって、多民族国家である中国の「大いなる統一」を実現した。それは、「華」の一員になるためには民族の指導層が科挙に受かってさえいればよく漢文明を受容する必要はないとしたもので、隋が科挙を導入した当初の考え方に立ち戻るものであった*37。清朝は、同じ遊牧民族のモンゴル、チベットの政治、宗教を尊重して寛容な間接統治を行い

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