が*11、その際には歴史を規範として現実に対応することを説く儒教の経典の部分が出題範囲に定められた*12。科挙の制度によって、それに受かれば青い目をしていようが金髪だろうが「漢人」と見なされるようになった。ただ漢族以外の諸民族にとって、読みが意味を持たない音である漢文を習得するのは暗号の解読のようなもので、科挙の為の勉強は猛烈な暗記力とかなりの忍耐力を必要とするものだった。漢族にとっても、名詞も動詞もなくテニオハも語尾変化もない漢文の解読は容易な作業ではなかった。そこで儒教の経典を学ぶのには、まずは暗記から入ったという。「読書百辺意自から通ず」の世界である。儒教の経典の深い意味は、漢族でも学習が進んで主要な漢籍をマスターして初めて理解できるものだとされていた*13。ファイナンス 2024 Jul. 15日本語と日本人(第4回) *8) 岡田英弘、2021、p74、149、152−53*9) 宮脇淳子、2019、p71−72*10) 竹内照夫、1981、p299−307、309−310、321−25。「学んで思わざれば則ちくらし」(論語、為政編)「尽く書を信ずるは、則ち書無きに如かず」(孟子、尽心下編)などの批判的な部分が忘れられて文献学・解釈学になっていった。*11) 科挙で個人が官僚になる仕組みは、中国の血脈による「父系原理」に基づく「姓」を重視する仕組みの下での分割相続制と整合的な制度だったとされている。日本では、「父系原理」よりも「家原理」が重んじられて分割相続が行われていなかったために科挙導入の必要はなかったというわけである(「御成敗式目」佐藤雄基、中公新書、2023,p125、142)。*12) 「五教正義」が編纂されて教科書になった(竹内照夫、1981、p325−6)*13) 岡田英弘、2021、p23、61、129−30*14) 「中国・韓国の正体」宮脇淳子、ワック、2019、p73*15) 岡田英弘、2021、p28−29*16) 岡田英弘、2021、p123、150を知れば百戦して殆うからず」と述べたが、己を知るためには、まずはそのように漢字文明圏で日本が極めて異質な存在だったことを知る必要がある。批判的な部分が縮小された儒教は、高級官吏たらんとする人々の必修の「経学」になった。漢代以降の儒学は、それまでと様変わりの無批判の古典学となり、統治に役立つ部分についての文献学、解釈学になっていった。すなわち、形式的な孔子崇拝と一定の倫理体系の信奉を伝承する学になっていったのである*10。隋の時代(AD581-618)には科挙が導入された儒家の登場中国の戦国時代(紀元前5世紀-3世紀)には、様々な経典を先生から弟子に伝える多くの教団(諸子百家)が生まれたが、その中でも儒家は特に自らの経典を神聖視し、その読み方を厳密に定めていたので、儒家同士でのコミュニケーションがスムーズだったという。そこで、戦国時代の多くの国々は、外交文書の行き違いが起こらないようにと儒家を雇っていた。そんなことから、始皇帝による漢字の読み方の統一にあたっても儒家の経典が使われ、やがて儒家の文献が統治手段の中心に位置づけられて儒者が雇われるようになっていった。といってもそれは文書作成のエキスパートとしてだった。というのは、そもそも、孔子の唱えた儒教は諸侯に対して批判的だったからだ。儒家で宰相になった人物はいなかったという*8。それが、統治手段の中心に位置づけられた結果、漢代(BC206-AD220)には、儒教の批判的な部分が縮小されていった。そもそも、儒教の「儒」は祭祀や儀礼を司る「巫祝(ふしゅく、シャーマン)」のことで、古代儒教では、祖先の祭祀、父母への敬愛が最も重要とされていた。それが、孔子の時代になって王朝の祭祀儀礼を重んじるものになっていったという。政治を批判するのが本来の姿だったわけでもなかったのだ*9。科挙のための勉強が儒教の経典の暗記から入ったということは、儒教の経典が漢文の模範文例集になったことを意味していた*14。岡田英弘氏によれば、そのような教育を受けた人は何かを表現しようとすると、その模範文例集や古人の詩文の文体に添った表現しかできなくなるという*15。そういった人々が「読書人」と呼ばれた。そのような「読書人」は、古典をプログラミングされた一種の人間コンピュータだった。そのような人間コンピュータ同士が高性能を競い合うゲームが中国人の「詩」や「文」の作成で、それは、ほとんど無限の煩瑣な約束事を乗り越えて、達意の名文を綴り情感に満ちた詩や文章を作るという大変な作業だった。そこから、中国では「文章が『経国の大業、不朽の盛事』」で男子一生の事業とされるようになったという。それは、漢字を日本語化したおかげで、仮名の他に多少の漢字さえ覚えれば日常の言葉で自由に詩を詠んだり文章を創ったりできるようになった日本人には想像を絶する世界だった*16。というわけで、日本では文章が男子一生の事業とはされなかったのである。なお、中国の文盲率が高かった背景にも、漢文の習得が
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