*1) 「漢字が日本語になるまで」円満字二郎、ちくまQブックス、2022,p22*2) 「漢字とは何か」藤原書店、岡田英弘、2021、p148*3) 岡田英弘、2021、p23*4) 紀元前3世紀から西暦5世紀にかけての中国で、瞑想、占い、気功などの方術によって不老長寿などを成し遂げようとした修行者*5) 「古代中国王朝史の誕生」佐藤信弥、ちくま新書、2024、p216、224。始皇帝が、不老長生を説いた徐福に巨資を与えたが、やがて詐術にあってい*6) 日本で言えば、庶民にとっての「お経」*7) 岡田英弘、2021、p58、57たとして腹を立てたのが焚書坑儒の直接の動機だったとされる(「四書五経」竹内照夫、平凡社、1981、p319−20)漢字の創造漢字は、漢族によって長江流域で創り出されたもので、それによる文章(漢文)は漢字が「孤立」して並べられるものだった(孤立語)。といわれても分かりにくいが、名詞や動詞といった品詞の区別がなく、接頭辞や接尾辞も、時称もなく、並べ方もどんな順序でもいいものだった。それは、どんな言語を話す民族にとっても目で見て理解できる、容易に使いこなせる道具だった。そこで、古くから便利な共通のコミュニケーション手段として広く用いられるようになった。漢字は、それぞれが意味を持つことから「表意文字」と言われてきたが、最近、研究者の間では、目で見て理解できることをとらえて「表語文字」とも言われるようになっているのだ*1。前回、日本人が日本語の中に漢字を融通無碍に取り込んで、話し言葉と書き言葉が融合した豊かな表現方法を創り出していったことを説明した。実は、話し言葉と書き言葉が分離していたのが漢字文化圏の世界である。話し言葉が違っていても見ただけで分かる書き言葉の漢字を駆使することによって話し言葉が違う多くの民族の文化が融合し、グローバルな漢字文明圏が築き上げられていったのである。日本で漢字の文章が残っているのは古事記の時代(8世紀)からだが、魏志倭人伝(2世紀)には、邪馬台国を率いる卑弥呼が南の狗奴国と戦った際に、魏が詔書と黄幢(魏の正規軍を示す旗)を贈って励ましたことが記されている。それは、邪馬台国が魏と濃密な交わりを持っていたことを示しており、とすればその交わりの際には漢字が用いられていたはずだ。目で見て分かれば、文章として理解できなくても十分だったのだ。当時の漢字を、周辺諸民族は様々な字体、読み方で用いていた。漢族の読み方は他の民族にとっては知る必要のないものだった。そのことは、日本人が漢文を訓読する際に中国での読み方を知らなくても問題がないことを考えれば理解できよう*2。それを、秦の始皇帝(BC221-206)が字体と読み方を漢族のものに統一してしまった。東洋史学者の岡田英弘氏によれば、それが焚書だった。秦以外の国で用いられていた字体の書物を焼き捨て、それによって統一がなされたという*3。なお、焚書坑儒と言われるが、詐術を弄する方士*4に対する懲罰は行われたが儒者に対する坑儒は行われなかったという*5。でなければ、その後の儒者の重用が説明できないからだ。読み方が統一された結果、目で見て理解できる便利な道具という漢字の位置づけは変わらなかったが、読み方は漢族以外の民族にとっては意味を持たない音*6になってしまった。話し言葉と書き言葉が分離してしまったのである。実は、そのように意味を持たない音になってしまった漢字を再び意味を持つ音にして自国語化してしまったのが日本人だった。そのようなことをしたのは日本人だけなので、そうとは知らない中国人の中には、そのように漢字を使う日本人も中国語の方言を使う周辺の一部族くらいにしか思っていない人がいるのだという*7。本稿の第1回に「敵を知り、己 14 ファイナンス 2024 Jul.国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇日本語と日本人(第4回)―偉大な漢字文明圏の成立―
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