4(出所)画像提供 奄美市 CC BY-NC-SA図4 カトリック名瀬聖心(みこころ)教会図5 移転集約前の永田橋市場が多い北部(奄美市・龍郷町)に限れば7%弱だ。隠れキリシタンの潜伏地として有名な五島列島(長崎県)、中でも上五島地区の約25%には及ばないが、下五島地区や平戸地区の8%強とはいい勝負だ。全国ベースの信徒率が0.3%程度であることを考えれば奄美大島のカトリック濃度がいかに高いかがわかる。隠れキリシタンの歴史はなく、名瀬近郊の浦上に生まれ鹿児島で洗礼を受けた大工の臼井熊八が郷里でカトリックの教理を伝えたのが始まりだ。物心両面の近代化を期待した地元検事の働きかけもあり、誘致に応えるかたちで明治24年(1891)、パリ外国宣教会のフェリエ神父が当時の任地だった天草から名瀬に転任した。宣教して2年で信徒数は1500人になったという。この時代の奄美大島にカトリックが浸透したのはなぜか。神への愛と隣人愛の教えは、奄美大島に3年住4右衛門こと西郷南洲(隆盛)が会得したんだ大島三4「敬天愛人」に通じる。檀家制度が未発達だった背景もあるが、勝手世騒動の熱狂が冷めきらぬ中、ローマ帝国の圧政下にあったユダヤ属州の民に自らを重ねたのかもしれない。福音書に「義のために迫害される人たちは幸いである」の一節がある。一部の島民に郷士格を与えて懐柔し、その他大勢の島民を支配させる薩摩藩の支配地経営は、家やんちゅ人という債務奴隷制度とともに島民の間に分裂を生んだ。利害を超えて互いを尊重する愛の教えは和解を進めるのに貢献したことだろう。川沿いの永田町市場から中央通りへ戦後、名瀬市街の一等地は金久本町通から中央通りに移った。昭和39年(1964)が初登場の路線価図を見ると、当時の最高路線価地点が中央通り(35千円/坪)だった。2番目が天文館通り(現在の奄美本通り)の坪当たり28千円で、郵便局から西の本町通り(元の金久本町通)の同24.5千円を上回っていた。地価の重心も永田川方面に移ったことがうかがえる。どのような背景があったのか。奄美群島は復帰を遂げた昭和28年(1953)まで米軍の統治下に置かれていた。金久本町通を中心に集まっていた寄留商人は終戦前からそれぞれの出身地に引き揚げていった。また、地価の重心が移った先には陸路の幹線である古こ見み本通りがあった。古見は名瀬南方にある地域名で、古見本通りは国道58号線の旧ルートの一部だった。鹿児島から那覇に至る国道58号線は大部分が海上にあり、奄美大島には赤あか木き名なから上陸し、名瀬から古見を通って南端の古こ仁に屋やに至る。名瀬には、古見本通りを通って南北から野菜等の生活物資が集まってきた。古見本通りと並ぶ永田川の両岸には戦後の闇市が展開していた。図5のように一部の店は川をまたいで出店していた。いわゆる「戦後」が終わると河岸の店の整理が進んだが、一部は共同店舗に入居した。その名残で現在まで残るのが永田橋市場と末広市場である(図8)。昭和47年(1972)の最高路線価地点は「末広町川かわ三ぞう商店前中央通り」だった。川三はワイシャツや学生服の店として現在も営業している。中央通りは島内唯一のアーケード商店街「ティダモール」で、令和に至るまで名瀬の中心であり続けた。また、本土と同じく名瀬にも大型店が進出した。売場面積は825m2と現代の感覚では小さいが名瀬初の大型店は昭和37年(1962)12月に出店した「まるはセンター」である。 46 ファイナンス 2024 Jun.
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