測候所古見本通り町役場跡中央通り旧寿屋支庁通り〒 伊津部県立病院跡蘭館山マリンタウン地区(埋立地)鹿児島腰又川商業跡147跡山形屋跡山形屋かわぞう三方村役場跡寿屋跡カトリック教会銀座通り市役所永田橋通りおがみ山公園大島支庁永田橋市場末広市場まるは跡御殿浜公園街道筋旧水面標高2.5m以上→空港国道58号線バイパスイオン旧ダイエー図3 3方を山に囲まれた名瀬の街(出所)図5を除き写真は令和6年4月に筆者撮影図2 市街図(出所)筆者作成ファイナンス 2024 Jun. 45支庁跡卍卍旧弊の専売体制は終わったが、代わりに鹿児島や大阪から黒糖の買い付けや日用品の販売のために商人が来島した。商人たちは役所や船着き場に近い金かね久く本町通の界隈に店を出した。彼らを「寄留商人」という。明治44年(1911)の鹿児島県統計書には同年末時点の宅地の最高価格の場所として金久とある。3方を山に囲まれた名瀬の街だが、測候所近辺の標高が周辺に比べ僅かに高く、その「麓」が中央通りに沿っている。住所地としての「金久」は年代によって変遷があるが、およそ中央通りを含み、この道から西側、蘭らん館かん山の麓までが金久エリアといえるだろう。蘭館山は幕末に白糖工場を整備するため招へいした英国人技師が住んだ洋館があったことにちなむ。当時、欧米人を見ればすべてオランダ人と呼ばれていた。大島支庁は明治の初めに金久の内陸に移り、明治40年(1907)におがみ山の麓の現在地に落ち着いた。当地最初の銀行も金久本町通の界隈にあった。明治25年(1892)に出店した大阪七十九国立銀行の支店だが、明治34年(1901)に破産。明治38年(1905)、同じく大阪に本店を構える浪速銀行が出店した。前身は島津家の関わりが深い第五国立銀行である。事実上の県域行で、鹿児島県内に拠点網を張り巡らしており、公金業務も扱っていた。その後、現在の鹿児島銀行の前身である第百四十七銀行が、大正6年(1917)、営業を譲り受けて同行大島支店とした。大正9年(1920)には鹿児島商業銀行の支店が開店した。『名瀬市誌』によれば、屋仁川通りと金久本町通が交差する東南角にあったが、昭和3年(1928)に第百四十七銀行に吸収された。カトリック教会と奄美大島の関係奄美大島にはカトリック教会が多い。鹿児島司教区の統計によれば、奄美大島には令和2年(2020)末時点で31の教会があり信徒数は3320人だ(現在の教会数は29)。これは島の人口の6%弱となる。信徒第百四十七銀行と同じ通りには百貨店の山形屋の支店もあった。明治30年代からあった親戚筋の山形屋衣服店の大島店を大正11年(1922)に転換したものだ。大島紬の仕入店を兼ねていた。⛩⛩
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