トカラ列島薩摩藩の直轄奄美群島琉球国間接統治奄美大島徳之島沖永良部島与論島石垣島喜界島275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,510C1,520C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成図1 奄美群島、■摩藩の版図と日本列島■摩藩の在外拠点としての名瀬豊臣政権が朝鮮半島から撤退して11年後の慶長14年(1609)、南端の雄たる薩摩藩は琉球国に侵攻する。講和条約の掟十五条に基づき琉球国は薩摩藩の間接統治下に置かれることになったが、国境を接する奄美群島は慶長16年(1611)に割譲され薩摩藩の領土となった。ただし対外的には琉球国にカモフラージュされていたからややこしい。奄美地域を代表するのが群島最大の奄美大島だ。鹿児島から約380km離れており、現代もフェリーなら11時間かかる。鹿児島起点に日本地図を重ねると奄美大島は広島県東部にあたる(図1)。さらに沖縄は京都大阪、石垣島が東京都区部に重なることから雄藩薩摩の最大版図の大きさがうかがえる。現地支配の厳しさは「黒糖地獄」と称されるほどだった。元々米納だったが、延享2年(1745)の「換かん糖とう上納令」以降は黒糖で徴税することになった。さとうきび畑への転作が進み食糧自給が難しくなる。文政13年(1830)以降の惣そう買かい入いれ制によって、藩の販売事業が納税分を除く残余の黒糖を独占的にかつ安値で買い入れることとなった。藩は黒糖を大阪の荷受問屋に卸し、安値仕入による超過利潤を藩の収益源とした。藩は、島民から注文を集めて食料や日用品を小売する購買事業も扱った。ただし商品が割高なうえ、黒糖見合いの商品券「羽は書がき」で買うシステムだった。黒糖地獄の背景にはこのような不公正取引の重なりがあった。幕末に至り、黒糖が富国強兵政策の財源として期待されたことから奄美に対する優越的地位の濫用の度が高まっていく。薩摩藩が外には薩英戦争、内には政権抗争を闘い抜き徳川家の下野後に連立与党の一角を獲得できたのには奄美の黒糖の貢献が大きい。名瀬の中心の金久本町通寛政13年(1801)、藩の出先機関の仮屋(代官所)が名瀬に移転する。奄美大島の「首都」としての名瀬の歴史が始まった。明治4年(1871)の廃藩置県で薩摩藩は鹿児島県となり、明治8年(1875)に名瀬の仮屋が奄美地域を統括する「大島大支庁」になった。旧藩の黒糖事業は不公正取引の体制のまま県設立の専売公社「大島商社」に継承されていた。旧藩時代と変わらない支配体制に異を唱えたのが、地元出身で英国から帰郷したばかりの丸まる田た南なん里りだった。丸田が指導した自由化運動「勝かって手世ゆ騒動」によって大島商社は解体に追い込まれた。 44 ファイナンス 2024 Jun.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史第52回 「奄美大島名瀬(鹿児島県)」第52回 「奄美大島名瀬(鹿児島県)」世界自然遺産と郷土愛がつくるまち世界自然遺産と郷土愛がつくるまち
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