*65) 山口仲美、2023、p207*66) 岡田英弘、2021、p134。高島俊男氏は、日本人にとって言葉の実体は文字だとしている(高島俊男、2001,p156)*67) 高島俊男、2001、p193ー95*68) 五味文彦、2023.8、p370−73,419−20*69) 同音異義語の大量発生は、もともと多様な読みを持っていた漢字が読みの少ない日本語になる上で避けられないことだった(円満字二郎、2022,p96、高島俊男、2001、p29−37)*70) 高島俊男、2001,p153−57*71) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014、p186*72) 大澤真幸、2016*73) 大澤真幸、Euro-NARASIA、2017.Sep,奈良県立大学、p52*74) 山口仲美、2023、p217、225ただ、今日の日本人のほとんどが古典が読めなくなったといっても、漢字が読めなくなったわけではない。そこで、ちょっと学べば古典をそれなりに読むことが出来るようになる*65。それは、韓国のようにハングルで統一した結果、漢字をほとんど失ってしまった国とは異なっている。漢字文化圏で最後まで科挙制度を守っていたベトナムも、今日の言語はローマ字化されてしまって漢字文化を失ってしまっているが、そことも異なっている。漢字文化とは何かといえば、一語一語の漢字が持つ歴史に根ざした意味内容だ。漢字は表意文字で、辞書を見れば示されている本来の意味を持っており、そこには日本で埋め込まれたものも含まれている。ただ、それが読まれるときに必ずしも意識されているわけではない。それは、人の名前がかな書きになっても問題がないことを考えれば分かることだ。本来の意味は、読みの背景に隠れてしまうのだ。そこで、ローマ字化したり仮名だけにしたりしてもいいではないかという考えが出てくるのだ。しかしながら、隠れてしまうから忘れてしまっていいかといえばそうはいかない。ローマ字化したり仮名書きだけにしたりしてしまうと、親が子の名前を一生懸命に考えて付けたという事実が抜け落ちてしまう*66。隠れていても、その背後には表意文字としての漢字の大きな存在があるのだ。実は、日本でも明治維新期に、初代の文部大臣だった森有礼が西欧諸国に追いつくためにと漢字を捨てて英語を公用語にしようと提唱したことがあったがうまくいかなかった。終戦後には作家の志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張したが、ほとんど賛同を得られなかった*67。GHQからの日本語をローマ字化しようとの動きもあったが実現しなかった。漢字を自国語化して、発音される言葉の背景に漢字本来の意味だけでなく日本で埋め込まれた意味をも持たせてきた長い伝統を持つ日本では、漢字を捨て去ることなど出来るはずもなかったのである。なお、言文一致で伝統文化からの断絶が生じて「文豪」がいなくなったといっても、今日の日本語の下でも優れた作家は次から次へと誕生している。漢字を自国語化してきた日本では、多くの人が古典が読めなくなっても、欧米語をも自国語化した新たな日本語を活用して日本語の文化をさらに発展させていっているのである*68。その日本語の神業のような情報処理が、脳でどのように行われているかと言えば、漢字の読みに加えて漢字の持つ視覚的弁別機能を活用しての処理が行われている*71。話された言葉の音声だけでなく、その元の漢字をイメージして言葉の意味を瞬時に確定しているのだ*72。例えば、「きのう」には、機能、昨日、帰納、帰農というように多くの同音異義語があるが、これらを元の漢字をイメージして区別しているのだ。それは、日本語が大変ビジュアルな言語だということを意味している*73。そのような複雑な情報処理を行って豊かな文字文化を開花させてきたのが日本人なのだ。実は、緊張感があるといっても、漢字かな交じり文は、ひらがな文やカタカナ文の2倍も早く読める。長い文章も思いのままに楽に書ける*74。目で見た漢字が意味の把握に役立つからだ。日本語の持つそのような視覚的弁別機能は、スマホの絵文字の開発にもつながったとされてい同音異義語が多い「日本語の力」漢字に漢字本来の意味だけでなく日本語の意味も埋め込んできた日本語には同音異義語がたくさんあり*69、「話し言葉」と「書き言葉」の間には、諸外国の言葉にはない緊張感がある。それは、ワープロの漢字変換を考えてみれば分かることだ。諸外国の言語ではボキャブラリーの選択があるだけなのに、日本語では漢字変換の作業が必要になる。それは、社会科学の論文でまず行われる言葉の定義をそのたびに行っているようなものだ。その神業のようなことを、日本人は日常不断に行っているのだ*70。 16 ファイナンス 2024 Jun.
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