ファイナンス 2024 Jun. 15*55) 岡田英弘、2021、p38、314*56) 山口仲美、2006、p177−179、p209−210*57) 漢文教育は、漢字文明への理解を通じて人生を豊かにするものといった位置づけがなされた(「訓読」論、2008、p208−210)*58) 山口仲美、2006、p181−202、p205−07*59) 山口仲美、2006、p200、p202−205*60) 高島俊男、2001、p172*61) 山口仲美、2006、p207*62) 安野光雅、藤原正彦、2006、p106―107*63) 岡田は、そもそも、どんな言語でも言文一致などありえないとしている(岡田英弘、2021、p321−22)*64) 山口仲美、2006、208日本語と日本人(第3回)的文体の散文は確立していなかった。漢文については、次回に説明するが、名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もなく、字と字の間の論理的な関係を示す言葉もなかったため、散文の文体の基礎にするのには無理があったからである*55。「5箇条の御誓文」は、漢文訓読体だったが、それで日常の散文を綴っていくのには無理があった。当初、明治維新政府は、公用文に漢文や漢式和文を用いていたが、やがて漢字カナ交じり文を採用して*56、それまで漢文や漢式和文が権威のある文体だとされていたのに終止符を打った*57。そのような中で、新聞や教科書には、俗語や日常よく使われる漢字を取り込んだ漢字カナ交じり文である「普通文」が採用された。それは、まだ一種の文語文だったが、やがて言文一致体が採用されるようになっていった。言文一致体の採用は、教科書では明治36年から、新聞では大正10年から、公用文では戦後のことだった。ただ、言文一致体の確立への道のりは必ずしも容易なものではなかった*58。当初の言文一致体では、地の文の記述の客観性を確保するのが難しかったからである。と言われても、ちょっとわかりにくいが、常に「世間」の中で話す日本語を書き言葉にした場合、単に自分が思っていることなのか、客観的な事実を述べようとしているのかの区別がつきにくかったのである。そこで、言文一致が試みられても一時は幸田露伴の雅俗折衷体や森鴎外の雅文体などの一種の文語文の復活が見られたのである*59。英語を公用語にしようとの提案を行った森有礼は、当時の言文一致体の日本語よりも英語でのほうが容易に文章を書けるとしていた*60。それを打破したのが、尾崎紅葉による「である」の使用だった。「である」は元々公の場で用いられていた言葉だったが、「である」が使用されるようになって以降、その時の気分に従って主観的に断言したいときは「だ」を使い、語りかけたいときは「です」「ます」を使い、客観的に述べたいときは「である」を使うというように、その使い分けによって書き手の呼吸のリズムを自在にあらわせるようになり、言文一致体の文章が違和感を持たれない文章になっていった。その完成形が、二葉亭四迷の「浮雲」であった*61。ちなみに、本稿も「である」を使用して記述している。そのような言文一致体の完成によって、書くための特別の言語(江戸時代の候文)や文法(漢文訓読法)が不要となり、誰でも散文を容易に書けるようになったのである。そして、そのような欧米語を下敷きにした新しい日本語の創出にともなって登場してきたのが「主語」だった。文学では「世間」の中の「私」を描く「私小説」のジャンルが誕生した。それは、「主語」の登場がもたらした欧米文明の影響による日本人の心の葛藤を描いた日本独自の文学だった。そのような中、西田幾太郎をはじめとして多くの識者が日本語にも「主語」があると思い込むようになったのである。古典は文語で楽しむのが一番だ*63。源氏物語や枕草子も、やはり文語で読んでこそ本来の味わいが楽しめる。それは、能や狂言がそうであるように、文学も「舞台の上」の世界として楽しむことによって本来の姿が味わえるからだ。古典を読めなくなったことによる伝統文化からの断絶は、伝統文化を踏まえた「文豪」がいなくなり流行作家ばかりという現象をもたらしているといえよう。ちなみに、明治時代の言文一致運動は、欧米の言文一致運動の影響の下に始まったものだったが、欧米の言文一致運動では、伝統文化からの断絶の問題が意識されることはほとんどなかったという*64。言文一致運動が始まったルネサンス以前のヨーロッパには、日本の平安時代や鎌倉時代の文学にあたるようなものはほとんどなかったからだというのである。古典が読めなくなった日本人今日、言文一致体が当たり前になって散文の文体が確立しているが、他方で古典が読めなくなって伝統文化からの断絶が生じるといった問題が生まれている*62。
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