ファイナンス 2024年6月号 No.703
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*27) 岡田英弘、2021、p122−123、山口仲美、2023、p217―224、山口仲美、2006、p80−83*28) 山口仲美、2006、p83)*29) 「なごみ」2024.1,三宅香帆、p84−88*30) 沖森卓也、2011、p148−49。「古代国家と中世社会」五味文彦、山川出版社、2023,p147.212.*31) 「戦国の社会と天下人の国家」五味文彦、山川出版社、2023.7、p320*32) 山口仲美、2006、p128−130、p220−225。「近世の政治と文化の世界」五味文彦、山川出版社、2023、p26*33) 五味文彦、2023、p42−44、192−97*34) 「近代社会と近現代国家」五味文彦、山川出版社2023.8、p200*35) それは、漢字文化圏のベトナムや朝鮮半島などで行われていたのと同様の読み方だった(「訓読」論、中村春作、前田勉、市來津由彦、田尻祐一郎2008、p108、p269−71)*36) 左訓は、例えば、通常の訓読(和訓)では、〈しずか〉で読まれる〈閑〉〈静〉〈謐〉〈寂〉の相違を明らかにした(「訓読論」、2008、p231)*37) 「訓読」論、2008、p30、41、167―71*38) 「訓読」論、2008、p271*39) 日本の小説家・文芸評論家・詩人。1918-1997年。*40) 「訓読」論、2008、p36、p173*41) 「訓読」論、2008、p195―96*42) 「唄本」論ノート、中丸宣明、「日本近代文学館年誌、資料探索18、2023.3、p31ファイナンス 2024 Jun. 13日本語と日本人(第3回)がな文は、日常使っている話し言葉を基本とする文章の作成という素晴らしいことを可能にし、自分の感情や考えをつづった「蜻蛉日記」や「枕草子」が生まれた。それまで口語りで伝えられてきた「竹取物語」や「伊勢物語」などの物語が文字化された。また、宮廷文学の最高傑作とされる「源氏物語」が生まれた*27。「源氏物語」は、和歌(韻文)で使う掛詞、縁語、本歌取りなどの技法を散文に巧みに取り入れた優れた文学作品だった*28。平安時代後期、鎌倉時代初期に書かれたとされる「有明の別れ」は、隠れ蓑を使って透明人間になった姫が、男装をして活躍するという、今日でいえばSF(サイエンス・フィクション)の物語だった*29。男性も「伊勢物語」(作者不詳)を著し、西行はすぐれた和歌を詠んで人々に影響を与えた。漢文で、多くの貴族が「小右記」などの日記をつけるようになった*30。平安時代末期には、ひらがな文では読みにくいというので、漢文の訓読で用いられていたカタカナを用いた漢字カナ交じり文が生まれ、そこからは「今昔物語」のような仏教の説話文学が誕生した。鎌倉時代には、「平家物語」のような戦記文学や「愚管抄」などの史論書が誕生した。江戸時代の武家諸法度は、最初、漢文で記されていたが、家光の時代にカナ交じり文に改められた*31。江戸時代には、「浮世風呂」のような庶民の話し言葉をできるだけ忠実に写した文学作品が登場し、多くの書籍が刊行された*32。また、庶民が楽しむ詩である俳句や狂歌、川柳が盛んになった*33。そのような江戸時代の庶民の文字文化を支えたのが寺子屋で、普通の庶民までもが文字を読むという当時の世界では例のないことが実現した。その状況が、世界に例を見ないような幕末における豪農や豪商をも含めた草莽の志士たちの活躍*34の背景となり、明治維新につながっていったといえよう。江戸時代には、漢文をそのままでほとんど日本語にしてしまう訓読法も開発された。それまでの訓読はお経の読み方に近いものだった*35。それに荻生徂徠が日本語でも分かるような一種のルビ(左訓*36)を付ける工夫を行い、さらに宇野明霞といった儒者が日本語への「口語訳」といってもいい訓読法を工夫していった*37。そのようにして訓読された漢文は、独特のリズム感の下に一般民衆でも理解可能な日本語文になった*38。その結果、漢文を読む「読書」が、一般民衆にも広く普及していった。文芸評論家の中村真一郎*39氏によれば、明治の初め、文字通り無学な田舎の少女だった中村氏の外祖母が、子供だった中村氏に台所に立ったまま荻生徂徠の「日本外史」をえんえんと暗唱して聞かせてくれたという。そのような中で、漢文を読むのは儒学者だけではないという変化が起こり、それが、明治以降の漢文の発展につながっていった*40。明治になって、まず公用文の主流になったのはそのような漢文訓読体だった。実は、江戸時代の公用文は候文で、候文はほとんど言文一致になっていた。それが、明治になって使われなくなったのは明治維新政府が、武士階級によって用いられ、敬語を使いこなしていた候文では四民平等の時代にふさわしくないと考えたからだとされている。福沢諭吉が、「学者職分論」の中で述べていることである。ちなみに、福沢は自らの著作の中では、孔子にも天皇にも敬語を用いなかった。「学問のすすめ」にも「文明論の概略」にも敬語表現はなかったのである*41。日本人と歌漢字を日本語化して自由闊達な表現を可能にした日本では、生活の中での歌が盛んになっていった*42。今

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