ファイナンス 2024 May 63 2 2 独立以降のインドネシア歴史の概観次に独立からジョコ・ウィドド政権樹立までのインドカーのシェアは9割を超え、街中を走る車やバイクのほとんどがトヨタや三菱、ホンダ等の皆さんにも親しみのある日本メーカーです(しかし、最近は中国や韓国勢による電気自動車もじわじわと数を伸ばしてきています・・・。)。公的部門では、インドネシアは日本の最大の援助国の一つであり、人材協力や経済社会インフラ整備等を通じて開発に大きく貢献してきており、2021年度までの有償協力、無償協力、技術協力を合計した政府開発援助の累計は約5.9兆円にのぼります。インドネシア初の地下空間を含む都市鉄道であるジャカルタ都市高速鉄道(MRT:Mass Rapid Transit)は、2019年開業以降、ジャカルタ市民の生活に徐々に根付いていき、2023年通年では前年の1.7倍の約3,350万人を記録しました(私自身も毎日の通勤に利用していますが、この数年でも目に見えて当地の利用者が増えてきています。)。今後、北側への延伸や東西方向への整備が計画されており、ジャカルタ市内及び近郊地域の輸送インフラの更なる発展への期待が寄せられています。人材協力の側面では、インドネシアにおける日本語学習者数は中国に次ぐ世界第二位(約71万人)を誇り、現在、技能実習生が約7.4万人、特定技能人材は約3.4万人(いずれも国別ではベトナムに次ぐ第二位)と数多くのインドネシア人が日本で技能を学んでいる等、長年の人材育成や教育分野協力の結果として、両国間の人的交流は年々幅と深みを増しています。ネシアの歴史を簡単に概観していきます。1945年8月17日、スカルノ大統領が1600年代から続く長い植民地支配からの独立を宣言しましたが、オランダがこの独立宣言を認めなかったため、インドネシア独立戦争が勃発しました。その約4年後、国際的に脱植民地・民族独立の機運が高まっていたことにも後押しされ、1949年12月のハーグ円卓協定によって、インドネシアは漸く事実上の独立を勝ち取りました。この事実上の独立後、スカルノのもとで政党政治・議院内閣制を基礎とした憲法が制定され、1955年には初の総選挙が実施されましたが、濫立した諸政党の相互対立、各地で頻発した内乱等により国内は混乱に陥り、スカルノによる建国はすぐには軌道に乗りませんでした。そこで、スカルノは1945年憲法への復帰を宣言し、大統領に権限を集中させる国家主導統治を通じて、こうした事態の収拾を図りました。他方、スカルノは徐々に共産主義に傾倒し、1960年代には西側諸国との距離が開く一方、急速にソ連や中国に接近していきました。加えて、次第に行き詰まっていった閉鎖的な統制経済に対する国民の不満の目を逸らすべく諸外国への軍事侵攻を行った結果、いよいよ国際社会からの援助を失い、生産活動の更なる停滞、対外債務の増加、インフレ加速等で国家経済は壊滅的状態になりました。その後、共産党のクーデター未遂事件を契機にスカルノが失脚すると、開発の父で知られるスハルト第2代大統領によるインドネシアの「開発」の時代が到来します。スハルトは共産主義諸国から資本主義諸国寄りの外交方針に転換し、西側諸国からの直接投資や援助を受け入れるべく、外資優遇措置を盛り込んだ外国投資法を定めて工業・農業生産の拡大、教育の普及等の経済社会開発を押し進めました。他方で、スハルト政権はスカルノの権威主義を継承・強化し、中央集権を推進したことから「開発独裁」とも称されていました。第三者による監視が機能しないがために政権後半には汚職、癒着、一族利権が蔓延り、同政権への国民の不満も高まっていました。アジア通貨危機を契機に経済・社会が不安定化すると一気に不満が噴出し、32年続いたスハルトは退陣を余儀なくされました。そして、同政権の副大統領から大統領に昇格したハビビ第3代大統領により中央集権体制の反省から政治活動の自由化、権力の分散が進められ、44年ぶりに実施された1999年の自由選挙でイスラム教指導者のワヒドが第4代大統領として選出されました。ワヒドはスハルトの負の遺産を清算すべく、経済再建や国軍改革を推し進めましたが、閣内対立の激化、諸政党の反発、国軍との軋轢等をうまく収めることができず、わずか2年後の2001年に汚職疑惑をかけられ国会で解任、同政権の副大統領であったメガワティ(スカルノ初代大統領の実娘)が第5代大統領として就任しました。当初はスカルノの実娘としてのカリスマ性に期待が寄せられていましたが、就任2ヶ月後に発生した
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