図5 唐戸市場ファイナンス 2024 May 59プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)(出所)令和6年3月15日に筆者撮影る。西日本最大規模の複合商業施設と銘打たれていた。敷地の北半分は下関駅貨物ヤードの一部、南半分は昭和48年(1973)に竣工した埋め立て地である。北九州への買い物客の流出を食い止めるべく、市や商工会議所、地元の商店街などが関わった一大プロジェクトだった。施設を所有する「下関商業開発」は下関市も出資し、商工会議所の会頭が社長を兼務した。核テナントは下関大丸とダイエーで、両者が専門店街の両脇を固める配置だった。下関大丸はシーモール下関への入居に当たって駅西口の店舗を閉店した。街の賑わいが東口に移ったあおりで西口のニチイの売上は落ち込み、昭和60年(1985)に閉店を余儀なくされる。もっとも、かつて小倉を凌ぐほどの下関の拠点性は、関門トンネルの開通を機に大きな転換点を迎えていた。海峡を挟んで下関と北九州エリアとの一体化が進み、特に買い物需要については小倉への流出が目立つようになった。鉄道トンネルの開通後、減便しつつ連絡船は継続されていたが、昭和33年(1958)の国道トンネル開通、昭和36年(1961)の鉄道電化などで需要が減り、昭和39年(1964)には廃止に至った。昭和48年(1973)に高速道路の一部として関門橋が完成する。昭和50年(1975)に山陽新幹線が博多駅まで全通したが、下関駅の約8km北の長門一ノ宮駅が新幹線の新下関駅となり、下関駅は都市間鉄道の拠点駅でなくなった。小倉だけでなく福岡にも近くなった。新幹線が開通した翌年の昭和51年(1976)の最高路線価をみると下関はm2当たり21万円で小倉の55万円の半分以下、そして県内最高値でもなかった。当時の県内最高値は徳山の28.5万円だった。小倉駅から下関駅まで2駅約15分である。ビジネスや工業分野においてはともかく、商業において下関は小倉の郊外都市の1つとなっていた。シーモール下関も百貨店というより郊外大型店と捉えたほうがしっくりくる。公民連携によるエリア一体再生かつての銀行街だった南部町、大陸への玄関口だった細江町に当時の面影はあまりない。南部町は旧三井銀行、旧不動貯金銀行の行舎に痕跡をしのぶのみである。地形を反映した唐戸界隈の区画も戦後復興で方陣状に上書きされた。アーケード商店街はシャッターを閉めた店が目立つ。他方、かつての交通拠点を活かし新しい街に再生する取り組みも進んでいる。90年代、かつての貨物ヤードが「海峡あいらんど21」に再開発され、海峡メッセ下関や全長153mの海峡ゆめタワーができた。平成13年(2001)には南部町の前の埋め立て地「あるかぽーと」に市立しものせき水族館「海響館」が開館し人気を博している。唐戸市場は昭和8年(1933)開設の「魚菜市場」を起源とする公設の地方卸売市場だ。業者向けの卸売と合わせ一般小売をしていることが特長だ。金曜日と土休日には屋台が出店され、一貫単位で寿司を買える「活きいき馬関街」が開催される。気の向くままパックに詰めた寿司を港で食べるスタイルが定着し、下関で最も有名な観光スポットとなった。令和5年、「あるかぽーと・唐戸エリアマスタープラン」が公表された。令和7年秋にリゾートホテル「リゾナーレ下関」を開業する星野リゾートが、市と締結した地域活性化に関する連携協定を背景に素案を作成した。ホテルが立地するあるかぽーとを中心に岬はな之の町ちょう地区から唐戸市場まで一体開発する計画だ。観光地としての価値向上を念頭に「日本を代表するウォーターフロントシティ」のビジョンを示している。市庁舎の前面には市民広場がオープンした。街なかの芝生公園で、敷地内にはカフェ「TタグラインAGLINE」がある。周囲に点在する港町の遺構やウォーターフロントをまとめる求心点の役割が期待される。
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