ファイナンス 2024年5月号 No.702
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鉄道連絡船と西細江町明治43年(1910)、主税局統計年報書の最高地価が西細ほそ江え町ちょうに移った。背景は9年前の明治34年(1901)5月に開業した山陽鉄道馬ば関かん駅である。線路は既存市街を大きく迂回し、Uターンする形で西から進入するルートを辿り、市街地に入ると海上を埋め立てて敷設された。そうしたわけで駅は南部町の西側、現在地より東の細江町にできた。明治35年(1902)、赤間関市が下関市に改称したのに伴い下関駅に改称。同年11月、駅の正面左手に山陽ホテルを開業する。鉄道会社が経営するわが国初のターミナルホテルだった。日韓保護条約が締結された年の明治38年(1905)には関釜連絡船を就航した。関門トンネルと下関駅西口街の構造を一変させたのが、昭和17年(1942)7月に開通した関門トンネルである。この年の11月、現在地に新しい下関駅ができた。これまで起終点だった下関駅が通過駅となった。連絡船乗船の前後泊に使われる山陽ホテルの強みもなくなり、戦災を機に閉業を余儀なくされる。戦後は国鉄ビルに転用され、平成23年(2011)に取り壊された。戦後は新しい下関駅が街の中心となった。もっとも、新駅から旧駅に至る広大な敷地は貨物ヤードとして使われていたため、繁華街は駅の西側にできた。資料で確認できる戦後最初の最高路線価地点は、昭和35年(1960)の「竹崎町駅の開業で人と物の流れが変わり、交通拠点が西細江町に移った。朝鮮半島やその先の中国東北地方すなわち南満州に向かう玄関口という位置づけも加わった。貿易拠点としては門司港に株を奪われつつあったが、新たな成長要因を得た格好だ。大正15年(1923)4月の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書によれば、下関市の最高地価が坪当り28円(西細江町)、門司市24円(本町桟橋通)、小倉市が18円(魚町)だった。当時の下関は広島を上回り中国地方で最も地価が高かった。西細江町には下関で初めての百貨店もできた。昭和7年(1932)に開店した鉄筋コンクリート造5階建の山陽百貨店である。戦争激化とともに衰退し昭和19年(1944)に閉店した。四丁目大洋漁業下関支社駅側通」である。大洋漁業は現在のマルハニチロである。昭和24年(1949)に東京に移転するまでここに本社があった。駅前だが下関漁港を背にした立地で、下関経済における水産業の重みがうかがえる。昭和41年(1966)には水揚げ全国一となった大洋漁業は明治13年(1880)、中なか部べ幾いく次じ郎ろうが家業の鮮魚仲買運搬業を継いで創業した。屋号が林はやし兼かねで略称がマルハだ。明治37年(1904)、明石から下関に本拠地を移した。大正13年(1924)に林兼商店を設立。昭和11年(1936)に大洋捕鯨を設立し南氷洋捕鯨に進出した。その後、戦時統合で林兼商店をはじめ関連会社群から漁労部門を集約して新会社とし、終戦に伴って大洋漁業に改称した。横浜DeNAベイスターズの源流は昭和25年(1950)シーズンから登場した大洋ホエールズである。前身は実業団チームの大洋漁業野球部だった。下関市営球場を本拠地とし、大洋漁業2代社長の中部兼かね市いちが初代オーナーを務めた。下関が本拠地だったのは最初の3年で、松竹と共同経営だった2年間は準本拠地として扱われ、昭和30年(1955)には川崎球場へ移転した。地元に根差した多角化の一環として、大洋漁業は百貨店「下関大丸」を立ち上げている。終戦直後に下関商工会議所の会頭だった中部社長が、大阪の商工会議所を介して大丸に百貨店の経営を依頼。大丸から派遣された川島銈けい造ぞうを下関大丸の初代専務とした。開店は昭和25年(1950)11月で、下関にとっては戦中に閉店した山陽百貨店に続く2例目の百貨店だった。店舗は駅の西側、下関漁港の手前にあった。元々はオフィスビルとして建築が進められていた5階建の「貿易ビル」を急遽百貨店に転用した。昭和34年(1959)12月、2倍以上の営業面積となる6階建の店舗を新築し移転した。駅西口には昭和46年(1971)にニチイ下関店が開店した。昭和53年(1978)、最高路線価地点が「竹崎町2丁目エイラクパチンコ店前通り」となった。パチンコ店は下関駅の線路を挟んで東側にある。西から東に移った背景には、その前年の10月に下関駅東口にショッピングセンター「シーモール下関」が開店したことがあ貨物ヤード再開発で街の中心は東口へ 58 ファイナンス 2024 May

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