第51回 「山口県下関市」第51回 「山口県下関市」下関半島火の山公園関門海峡北海道・北陸巌流島企救(門司)半島275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D釜山・上海新下関駅下関駅小倉駅彦島市民球場跡壇ノ浦功山寺門司港駅門司駅神戸・横浜図1 関門海峡と下関(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成海運拠点と南部町下関は元々赤あか間まが関せきといい、赤間関の別表記である赤馬関の後ろ2字から馬ば関かんとも呼ばれた。北前船の寄港地で幕末には政権抗争の舞台となった。海峡という地政学的要衝だったこと、下関が「稼げるまち」だったことが背景にある。長州藩は条約破棄、英仏軍が駐留していた居留地反対を一貫して唱えた先鋭野党で、民意ならぬ叡慮をめぐり万事バランス重視の政権党と対峙していた。地の利から海上封鎖をこころみたが、英米蘭仏の返り討ちにみまわれる。いわゆる馬関(下関)戦争である。停戦交渉を担った高杉晋作は下関で郷土防衛隊の「奇兵隊」を立ち上げた。奇兵隊は後に藩内の権力掌握を目指して功山寺で決起。かたや薩摩藩との野党連合構想が進められていた。「稼げるまち」の面でいえば、抗争を持続する軍事力を持てたのも特別会計のルーツといえる「撫ぶ育いく方かた」を持っていたからだ。その稼ぎ頭が「越こし荷に方かた」である。これは倉庫業あるいは倉荷担保の融資を営む「地方公営企業」だった。下関市は、長州藩が馬関戦争の講和条件として外国船に航行の自由を認めた元治元年(1864)を開港年と定めている明治8年(1875)に横浜-上海定期航路の寄港地になり、明治16年(1883)には対馬厳原、博多とともに朝鮮貿易の特別輸出港に指定された。明治22年(1889)の市制制定と同時に施行された31市の1つである。当初は赤間関市といった。このように港で発展した街なので街の中心は港の後背地にあった。下関で最も高い地価は、明治37年(1904)の大蔵省主税局統計年報書によれば西南な部べ町ちょうだった。西と東の南部町は近世以来の問屋街で、明治以降は問屋を得意先とする銀行街になった。下関で初めての銀行は明治9年(1876)に一等出張店を開業した三井銀行である。支店に昇格したのは明治26年(1893)だった。得意先だった物品問屋の衰退に伴って明治40年(1907)に撤退。営業は百十銀行に譲渡した。百十銀行の前身は、明治11年(1878)11月に創業した第百十国立銀行である。長州藩の旧藩士らが立ち上げ、初代頭取は毛利一門の右みぎ田た毛利家の毛利藤とう内ないだった。県庁所在地の山口で創業したが、2年後の明治13年(1880)には本店を赤間関の西南部町に移した。戦時末期の昭和19年(1944)、百十銀行は華浦銀行、船城銀行、大島銀行、宇部銀行と合併し山口銀行となった。山口県の地域一番行である。明治26年(1893)、第百十国立銀行は本店行舎を日本銀行に売却し東南部町に移転する。日本銀行に交通手段で激変した街の立ち位置交通手段で激変した街の立ち位置 56 ファイナンス 2024 May路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史
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