*34) 「明恵 夢を生きる」南直哉、p267*35) 山田仁史、2022、p248*36) 無能者と思われていたものが活躍する「三年寝太郎」といった民話にその感覚が表れている*37) 東京大学先端科学技術研究センター熊谷晋一郎准教授*38) 人類みな兄弟。山折哲雄、われ信ず、ゆえにわれあり。悪人正機。非分離主義(金谷武洋、2019、pp26−28)。*39) 鈴木孝夫、2014、p87*40) 船橋晴雄、2023,p135*41) 「『幕府』とは何か」東島誠、NHKブックス、2023、p190。*42) 船橋晴雄、2023,p136ファイナンス 2024 May 33日本語と日本人(第2回)思うゆえにわれあり」という答えなのだが、それは人間が神によって創造され、現在を生き、最後の審判を受ける存在だというところから来ているといえよう。神によって創造され、神によって裁かれる存在だとすれば、その「われ」は何かという疑問が出てくるというわけだ。それに対して、全てが混沌の中から生まれてきたという神話を持っている日本人は、なんとなく死ねば混沌の中のご先祖様と一体になるという感覚を持っている。そのような感覚を持つ日本人にとっては西欧流の「われ」は何かという疑問や、それに対する答えとしての「自我」という概念は出てきにくい。ちなみに、仏教では「さとり」を開くために、「自我(主体)」への執着を取り除くことを説いているが*34、そもそも仏教の「縁起」に「自我」はないという。「縁起」とは、「主体と対象それ自体がまず存在していて、しかる後に行為が発動するのではなく、発動している行為が、主体と対象を構成することなのだ」という*35。それは、日本語における主体や対象の認識と同様の構造だと言えよう。そのように近代西欧流の「自我」の観念を持たない日本人は、西欧流の自分の能力に対する自意識が希薄で、人の価値を特定の能力で測ることを良しとしない感覚を持っている*36。一般的な日本人は履歴書に、西欧人のように自分の能力を積極的には書いたりはしない。ビジネス・スクールを卒業すれば、西欧人は高められた自らの能力を強く意識するが、日本人でそんな意識を持つ人は多くない。それは、日本人が、自己肯定感というようなものを持つ必要性をそもそも感じていないからだと言えよう。それは、前回ご紹介したように、日本人にとっての「自立」とは、自分が他者に依存しなくなるということではなくて、多くの人に少しずつ依存できるようになることだ*37からだと考えられるのである。日本人にとっての「自立」が、多くの人に少しずつ依存できるようになることだということは、多くの人で構成される「世間」を大切にすることにつながっている。日本人の愛社精神や愛校精神は、そのような「世間」の一つである会社や学校を大切にするということなのだ。山折哲雄氏によれば、日本人はそのような「世間」の中にいる人間を信頼するのだという。山折氏によれば、西欧人は疑うことがすべての源という人間観を持っているが、日本人は他人を信ずべき存在という人間観を持っているという*38。それも「世間」を大切にするところから出てくることであろう。他人を信ずべき存在ということは、日本の文化や芸術が「世間」で楽しむことを基本にしていることにもつながっている。例えば、茶道では、掛け軸や茶道具を茶室という「世間」で、主人がお客と一緒になって楽しむ。それは、演奏会場や美術館という「世間」と離れた場で個人として楽しむ西欧流とは異なるものだ。明治時代に欧州の美術館を訪れた日本人は、蔵のようなところに美術品が所せましと並べてあって、それに対面させられることに違和感を持ったという。日本語における「世間」は、時々刻々と立ち現れてくるもので、そこにおける貧富の違い、貴賤の違いなどは絶対のものではない。そこで、幅広く人々に親しまれる形での日本の文芸が生まれてきたと考えられる*39。平安時代の中頃には様々な滑稽味のある雑芸が猿楽の熊(わざ)として庶民にも親しまれるようになった*40。無礼講と会合(えごう)の文化が全面開花したのは南北朝時代といわれているが、そこではその場限りで身分制の時限的解除が謳歌されていた*41。能のように上流階級だけが楽しむものも生まれたが*42、幅広い「世間」で楽しむものとして連歌や連句、茶会が盛んになり、今日につながっている。連歌や茶会は、プロの芸術家による作品に「美」を見出すだけではなく、しろうとの創作にも「美」を見出そうとするものだった。連歌や連句は、「世間」における「主体」の掛け合いというべきもので、その創作過程での言葉のお可笑しみや変化を連衆が共同で楽しむものだっ「世間」で楽しむ日本の芸能
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