*27) 「笑いの日本史」船橋晴雄、中央公論新社、2023、p82*28) 船橋晴雄、2023、p14。船橋氏は、日本人の笑いの一つの中心は、性にかかわる笑いだとしている(同、p12,18)。*29) 幼児の成長の過程で、10か月頃に知覚狭窄が起こり、それ以降は聞き分けが難しくなる(「顔に取り憑かれた脳」中野珠美、講談社現代新書、2023,*30) 船橋晴雄、2023、p49、55*31) 船橋晴雄、2023、p67、163−170*32) 船橋晴雄、2023、p114、139―142*33) 本稿第1回、ニック・チェイター教授、参照。同教授は、それは、アダム・スミスと同時代のエジンバラの哲学者デイビッド・ヒュームが洞察していp79−80)たことだとしている(「心はこうして創られる」ニック・チェイター、講談社選書メチエ、2022,p255)。川先生は、塩爺といわれ大蔵大臣としては異例の人気を誇っていたが、私が無理な説明をしたりすると「松ちゃん、そら違うわねえ」などとおっしゃっていた。日本語における笑いは、古事記の時代から登場する。天照大神が弟の素戔嗚尊の乱暴狼藉に立腹して天岩戸に閉じこもった時に、天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が滑稽なセクシー・ダンスをしたのに八百万の神が大笑いして、それに天照大神が何だろうと顔を出したというお話しだ。日本では、神々も笑いを楽しみ、自らも笑いを生み出す主体だったのだ。なお古事記には、この時に歌があったかは述べられていないが、滑稽なダンスに歌が伴わなかったとは考えられない*28。日本人の歌好きについては、次回見ていくことにしたいが、ここでは日本語の歌の背景に日本語が子音+母音(CV)構造となっており、音節の切れ目が明快で音節数が数えられ、等時間リズムを作りやすいことをご紹介しておきたい。また、日本語は、英語のような強弱アクセントではなく、高低アクセントをとることから、メロディーを作りやすく、音読すると音楽に近い心地よさを醸し出すとされている。相撲の「呼び出し」を思い浮かべていただければ、お分かりいただけよう。それが、平家物語などの語り物や浄瑠璃、浪花節といった日本独自の文学・芸能を生み出した背景になっているのだ。ちなみに、江笑いを大切にする日本語動物と人間の違いに言語の使用があるといわれる。言葉の使用によって人間社会、文明の形成が可能になり、共存・共栄が可能になったというわけだ。とすれば、周りの人が何を言うのかをまず認識し、相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぼうとする日本語は、多くの言語のうちでも最も進化した形態のものだということになる。日本語でダジャレやギャグなどの言葉遊びによる笑いが盛んなことは、その例証だと考えられる。なぜならば、動物は人間のように笑うことはないからだ*27。戸時代までは、多くの書物は声に出して音読するものとされていたという。ただ、音節の切れ目が明快で音節数が数えられる日本語は、その反面として聞き分ける音の数が100程度と英語の600程度に比べて非常に少ないという特徴を持っている。日本人が、英語を苦手とするのも、英米人のように多くの語を聞き分けられないからなのだ*29。逆に、英米人は東京を「トキョ」などと発音してしまうのだ。日本人の笑い好きに関しては、財務省の先輩である船橋晴雄氏の「笑いの日本史」に詳しいが、枕草子の作者である清少納言の父親だった清原元輔は「人笑するを役となす翁にてなむ有り」けるとされていたという*30。それくらい笑いが重視されていたのだ。鎌倉時代に成立した「宇治拾遺物語」には、一貫して笑いを誘う話が集められていた。江戸時代には、「醒睡笑」という笑話集が編まれていた*31。船橋氏は、そのような日本人の笑いの背景には誰にも仏性があるという禅の人間観や多神教があるとしている。一神教の世界では神に捨てられたらおしまいだが、多神教の世界では「捨てる神あれば拾う神あり」になるからだ。そして「捨てる神」も絶対の悪ではない。それは狂言に登場する悪人がほほえましい「悪人」で笑いを誘う存在になっていることからわかるという。そのような狂言の笑いは、おおらかな幸福感を誘うのだという*32。西欧流の「自我」の必要性を感じていない日本人「世間」での会話が、相手との一種の共同作業だということは、前回述べた日本人には西欧人のような「自我」がないということにもつながっている。自分も他者も、「世間」での出会いに先だって確立している絶対的な存在などはないという日本語の世界では、人々は西欧流の「自我」や自己肯定の必要性という「ナンセンス」をそもそも感じていないというわけだ*33。西欧流の「自我」は、「われ」という自分の存在がなんなのかという疑問に対するデカルトの「われ 32 ファイナンス 2024 May
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