ファイナンス 2024年5月号 No.702
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ファイナンス 2024 May 31日本語と日本人(第2回)*24) 土井善晴氏は、大阪弁は地球とつながっていると感じるのでやめられない、料理も同じだとしていた。養老孟司氏によると、標準語は「軍隊のことば」であった(学士会報、No.964,2024.1,p18)*25) 「大阪ことば学」尾上圭介、岩波現代文庫、2010、p56―65、67、112,164,166,186,209,213)。*26) 尾上圭介、2010、p72、108−109、166、170−172、189、193大阪弁の話「世間」を大切にする日本語では、地方ごとの「世間」の違いに応じた方言も発達していた*24。江戸時代までは、各地方ごとの方言の違いが甚だしく、言葉が違う地域同士の話し言葉での意思疎通は困難なほどだった。例えば、薩摩弁と津軽弁とでは意思疎通が難しく、江戸では筆談で意思疎通が行われていたという。それが、今日、標準語に押されて各地方の方言が失われていっている。そんな中でも根強く残っているのが大阪弁だ。大阪弁は、相手との接触を歓迎する、人と会話することそのものを喜ぶ、そういう気持ちまで表現してこその会話であるという、ハイコンテクストな日本語本来の感覚を大切にしている言葉と言える。「世間」における相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぶという日本語の特徴をしっかりと保持しているのが大阪弁だということである*25。日本人は暗黙のうちに、こうした前提で会話をしている。そんな日本語の会話は、ハイ・コンテクストなものだといわれる。「言わなくてもわかるだろう」「空気を読め」というわけである。「空気」とは、様々な参加者で構成される変幻自在な「世間」で形成されるものだ。考えてみれば、相手がいなければ自分も規定できないというのは、面倒なこと甚だしい。ただ、その分だけ、他者への思いやりが常に発揮されるのが日本語の世界なのだ。ちなみに、江戸時代まで、一人の人間が複数の名前を持つことは当たり前だった。山縣有朋は、幼名を辰之助、通称を小助といい、その後、狂介・小輔・狂助・狂輔と称したが、その他に素狂という号も持っていた。変名としては萩原鹿之助という名前も用いていた。有朋の諱(いみな)を称したのは明治4年以降のことだった。そのように自分の名前も自由自在に変えるのが日本語の世界だったのだ。大阪弁では、「われ」や「おんどりゃ」というように、臨機応変に自分と相手を表現する。大阪弁は、「おまへん」を「おまへんねん」といって、柔らかく、親しく、手の内を開いて話しかける調子を出す。それは、相手との心理的距離を自在にあやつる表現だと言えよう。「はよせんかいな」は、きつい表現の「はよせんかい」に「な」という助詞をつけて和らげている。「言いなはれ」は、「言え」という命令形に「なされ」という尊敬表現を一体にしたものだ。アクセルとブレーキを同時に踏むような表現だ。「言うたれ」「言うたらんか」といった迂回的要求、反語命令といった表現も持っている。相手と自分の関係や、場面、状況の在り方を精細、緻密に感じ分け、それに応じて要求の仕方を微妙に使い分けるのが大阪弁なのだ。重層的、複眼的で、異質なものを共存させる精神の在り方を多様に表現し、上品で柔和で丁寧な言い回しから喧嘩をするのにはもってこいの汚い言い回しまでをもっている。また、停滞を嫌い、わかりやすさが一番という特徴も持っている。神戸の動物園の猛獣の檻の前には、「かみます」とだけ、そのものずばりが書いてあるという。合理性を志向しているのだ。日本語の「世間」での会話は相手との共同作業なので、相手との信頼関係が大切になるが、そういったことを柔軟にこなせるのも大阪弁だ。例えば、高校野球で相手に先行を許している監督が7回裏に「ぼちぼち行こか」といった表現で選手に声をかける。「何が何でもがんばれ」など、恥ずかしくて言えるものかという含羞が、そこには存在している。それは、しゃべることが「世間」の中で、生きることであるという文化だと言ってもいいだろう。元禄以来の上方和事の伝統といってもいいのかもしれない。大阪の笑いは、相手との距離の近さ、相手との共同作業の感覚、次元の異なった二つの視点や論理が、瞬間的に結合して生まれるものだといわれる。会話を共同作業と考えるので、誰かがぼけると誰かが突っ込む。東京の保育園では、バーンとピストルを撃つ格好をしてもみんながきょとんとしているが、大阪だと何人かは撃たれて倒れる格好をするのだという。大阪弁では、同音異義語による駄洒落も多用される。大阪人が二人寄ったら漫才になるとも言われる*26。政治家で、大阪弁の技法を使いこなしていたのが、私が主計局の総務課長としてお仕えした塩川正十郎先生だった。塩

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