ファイナンス 2024年5月号 No.702
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ファイナンス 2024 May 29日本語と日本人(第2回)*7) 学士会報、No.964、p19*8) わが国最初の勅■和歌集。その解釈は伝承化され、肥後の細川家に伝えられた。筆者が出向した熊本県の水前寺公園には、古今伝授の間が京都から移築されていた。*9) 万葉集740では「鬼」を、伊勢物語第23段では「魂」を、「もの」と読ませていた。*10) 規範としての民主主義・市場原理・科学技術」藤山智彦編著、東京大学出版会、2021、p64、65*11) 「述語制言語の日本語と日本文化」金谷武洋、文化科学高等研究院出版局、2019、p143*12) 「女子大で和歌をよむ」木村朗子、青土社、2022、pp179−182た料理研究家の土井善晴氏が指摘されていることだ*7。言霊の幸はふ国とまあ、小難しい話から始めてしまったが、今回は、日本語が自然物をも構成員とする「世間」での会話の道具として発達してきて、そんな中で「世間」で楽しむ日本文化をはぐくんできたという話をすることとしたい。古今和歌集*8の仮名序に、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とある。「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」ということは、「生きとし生けるもの」すべてが日本語の「世間」の構成員で対話の相手だということを示している。「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば」というのは、和歌が「花鳥風月」を読むことを示している。平安時代の和歌には、基本的に「心物対応構造」というものがあった。それは、ある物にこと寄せて自身の心を歌に託す構造のことで、「掛詞(かけことば)」や「序詞(じょことば)」という技法に現れていた。例えば掛詞の「まつ」は恋しい人を待つ気持ちと樹齢の長い松を対応させている。序詞では、「海(わた)の底沖つ白浪たつた山いつか越えなむ妹があたり見む」という歌の「海の底沖つ白浪」が「たつた山」にかかる序詞で、白波(白浪)は立つので「たつ」を導き出しているといった調子だ。「掛詞」や「序詞」では、必ず心と物がペアになっているが、その場合の「物」が「花鳥風月」で、自然の中の植物、動物、更には景色ということになる。そのような日本の和歌における人間の心は歌われるものと別個のものではなく、むしろ積極的に結びついたものだったのである。「世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば」の「事(こと)」については、科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェローの藤山智彦氏が、「ものこと」という場合の「もの」とは根っこにある形而上の「もの」のことで「こと」とはそれが形而下に現れることだと指摘しているのが参考になる*9。本居宣長が、源氏物語の研究で大切だと気付いた「もののあはれ」の「もの」の第一義的な意味も、そのような形而上のものだった*10。そのような形而上の「もの」の根っこが現れるのが「ねあら」で、それが「ながら」に変音して「神ながらの道」になったという。形而上などというと難しいが、前回、説明した、人間も動植物も神々も同じように混沌の中から生まれてきたという日本神話の世界からだと考えればわかりやすい。「神ながらの道」が、そのようなものだとすれば、その「神ながらの道」を実践する神道の祝詞で、混沌の中から生まれてきた自然物が言葉を発し、自然音を言葉のように聞くのは当たり前だということになる*11。聞くだけでなく雨乞いのように神への問いかけも当然に出てくることになる。後拾遺和歌集には、神との問答である神祇歌や釈教歌などが収録されており、能の「鉄輪」では、貴船神社で神の声を聞く場面が登場するというわけだ*12。そのような日本では、人工物の器物も百年も経つと精霊を宿して言葉を発する付喪神になると考えられていた。漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「一反木綿」や「塗り壁」といった妖怪は、元々は器物だったが、鬼太郎は、それらの妖怪と一緒に大活躍する。それは器物にも「人格」があるからだ。針供養、筆供養、人形供養などが行われてきたのも、器物を日本語の「世間」における対話の相手と考えてきたからだ。中世には、盗みはたとえ1銭でも死刑に処するという「一銭切」ということが行われていたという。それは、モノを所有者の肉体の延長、所有者の「たましひ(魂)」の一部が乗り移ったものと見ていたため、盗みに対して過酷な処断になったのだという。また、所有を所有者の肉体の延長とみなしていたため、質入れや売買はモノを本来あるべき場所から引きはがす異常な

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